地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

8 人間にとって環境と自分の間に秩序を現すような感受性は必然なのか -2

学者の視点から見ると、地域性を表現する景観の喪失には問題がある

現在の日本には、物の機能性を追求した結果もたらされる機能美が散見される。
また、機能性を度外視した観賞用の美というものも世の中には多数存在する。
ただ、機能性もそういった創作の美もごく限られた空間で実現されるものであり、それらの総体で構成される日本の都市風景や田園風景にはまとまりがない。
一方で、ベルク氏によると、古代や中世の村落や都市の景観には全体的な秩序が現れていたという。
その地域独特の秩序(景観)とそれを支える感性こそが、地域性の正体である。
ベルク氏は本書で、個人が他人の(動物)身体や財産を客観的にわかる形で害すること以外には制限の加えられない自由行動をとることを容認する資本主義経済のもとで、もはやそのような共同体をまとめる秩序が実現され難い近代社会の現状を問題視している。
その問題意識は、地理学者として研究対象が失われてしまうことに向けられているだけではなく、より広義の学識者としてかつては公共の場まで広がっていた人間性の喪失にも向けられている。

物体化されてしまった「風土」

人間の体から切り離されたたんなる物としてとらえられるようになった「風土」は人間性を失い、物体または生物の次元により近い法則に従って自律的に発展し始めた。
自律的な法則とはたとえば、人間の視点や生活感を無視して動くような金融資本主義のようにである。
詳しいことは後の記事で述べる。

近代思想が主客を分離した観点から生み出した近代的な構築物、たとえば建造物などは人間の意志を映して自然の法則に立ち向かい、自然と拮抗するように(打ち消し合って)存在している。
それはそれで機能美のようなある種の美しさを実現しているだが、地域独自の現実的な必然性を飛び越えているそれらは、関わる人にその地の歴史や文明ではなく個人の恣意やより下位の物理法則などを参照するよう強い、時に居心地を悪く感じさせることがある。
ベルク氏は人が自ら触れる事物と通じ合っているという通態の概念を提唱しているにも関わらず、団地や駐車場や高圧線などにふさわしい美学は「邪念を詰め込んだサロンの基而上主義の理論にすぎないと思える。」(p.381)と述べ、自論を脇にどけて嫌悪感を表している(「思える」と表現しているので客観的視点から断じているわけではない)。
ベルク氏には近代建築の姿がよほど非人間的に見えるようだ。

しかし無機的な構築物も改めて「風土」化されている

しかし昨今は工場他の人工建造物を萌えの対象などとしてポジティブに価値づけ、観賞している人々がいる。
彼らの話を聞くと、彼らを含め僕らはみなそのような無機的な建造物にすら自発的に人間くさい歴史を刻み、それらの方からも歴史づけられて自分のあり方(たとえば行動パターンや趣向)を変えられ、つまり自ずから通態して(通じ合って)新たな美意識をそれらに見出そうとしだしているかのようだ。
人工的な現場がただかっこいいから好きなんて言う人もいるのかもしれないが、中には時間をさかのぼって得られる生々しい営みの感覚をそこから読みとっている人もたくさんいる。
彼らの血の通った、かつ地に足の着いた団地論や高圧線論などを聞くとその愛着は決してまがいものでなく自然な態度だし、もはやそこにれっきとした風土性が生まれているとしか考えられない。
若い世代の感性がベテラン地理学者の想像の斜め上をいってしまったのだ。
ベルク氏も本書で自然物も人工物も両方文明の産物だと言っているし、たとえばあのタモリさんが好む坂道も、自然と文明の間にあるといえよう。
そして美学があるところにはいつか必ずそれを体現する秩序が現れるはずである。

話をだいぶ前に戻すが、生感覚喪失問題の核心は本人を取り巻く状況(環境)にもその中の個々の事物の性質や形でもなく、その事物の背景の知覚有無、物事に対する人の気の持ちようにある。
そして周囲の場からの生感覚は、人間の行動する場に生きた秩序をもたらす。
たとえば何でもDIYしてしまうおじさんの納屋も、他人にはとっちらかっているように見えて本人にとっては必要な道具が最短でとり出せるような、独自の秩序が保たれた場所である。
そういった秩序は確かによく言われる「機能美」を持つのだが、それは実際は「風土」の機能体系と象徴体系の全体から発するため、その片方の機能だけをその源泉として認めるのは片手落ちである。
そこに現れてくるものを表す語としてはたとえば、かつて民芸運動が目指した「用の美」のような語が、それを支える人間性全体を表す点でより適当である。

第2の体「風土」はどのように扱うべきなのか

「風土」をその機能という一面だけにおいて認識したら、「風土」は人間の身体性から離れて物や生物自体に由来する非人間的なものに近づいてしまった。
そもそも人間は、なぜ自分の体だけでなく環境を(象徴を用いて)取り込んで生きようとするのか。
人間は「風土」をその機能においての他に、どんな面で必要としているのか。