地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

2 是非を問う力

『風土学序説』に出会って

この日本社会で枢要なことはすべて、科学を初めとする学問に裏づけられている。
だから僕はかつて、自分にとって信じがたいくらい理不尽に感じられる個人主義や資本主義が僕のまわりの人たちから支持されている理由も、彼らが僕の態度を非難し僕がそれを不服に感じる心理も、科学に根ざした学問研究によって解き明かされていて然るべきだと考えていた。

「この世界は人間だれしもにとって自分の体も同然だ」

本書はその一見突飛な主張を学術的な視点から説明しきって、僕の世界観を変えた。
もしも本書の論拠が著者の経験であったら、その内容がどれほど説得力に満ちていたとしても、僕はその内容をいずれ忘れただろう。
本書に照らすと僕はただ生来「風土」の風性を強めに感受しがちだっただけだが、僕のまわりの人たちは「風土」における身体感覚の存在を否定していたため、僕は彼らを理不尽に思っていた。
もし「痛い」と言う人が他人から「痛いはずがない」と言われたら、大勢に見えないものが見える人が「(その人に見えているという)そんなものは存在しない」と言われたら、言われた方は理不尽だと感じるだろう?
もしも本書に出会わなかったら、僕は納得できない世の中なんかと折り合いをつけようとはせず、生き方の指針を求めて地球上を際限なく歩き回り続けていたかもしれない。

本書と僕との出会いは、偶発というのがふさわしい出来事だった。
それは偶然だったけれど、本書が本という形で流通したという事実、そしてそれが流通した場の問題点に言及しているという事実から、その場の誰かがいずれ本書を読み、本書の意義をその場に、共にいる人々に問うようになることは必至だったと思う。
大阪外国語大学で僕の拙い話を聞いてオギュスタン・ベルク著『風土の日本』を紹介してくれた、堤一昭さんへの感謝をここに記す。
そして「既知の事実の理屈を知りたい」という自分の求めを受けとめてくれる場がこの日本に開かれていたことに、また『風土学序説』が生まれるために欠かせない下地となった数々の研究者と思想家(本書巻末に挙げられただけで261人)とオギュスタン・ベルク氏の仕事に感謝し、敬意を表する。

僕たちは平和で健康で生活にとくに不自由がなくても絶望を感じうるし、さらに幸せになろうとする。
逆に、世界との一体感を得られた人は自分が衰え消えることをネガティブに感じなくなり、そのことに希望すら感じる。
後天的な信仰の有無に関わらず、人間とは生まれつきそのように「理」を求める生き物だったのだ。

人間とは学び問う者であると思う

充実した生活を送りよく生きるために、何事も「実践すること」はとても大切である。
そして自分のふるまいについて「思想をもつこと」つまりそれをある理論において理解することもやはりとても大切である。
僕たちが実践において出会う物事は、僕たちの認識次第でその意味をがらりと変えうる「風土」なのだから。
「風土」がその風性だけでも土性だけでも決して意味をなさないように、人間の活動においては実践と思索を両方行わないとその人にとって意味ある営み、すなわちそこにいるその人らしい営みにならない。
そして誰だってその両方を一所懸命しているだけで、もうその「風土」の主役なのだ。

どうか、人間が学び問うために開かれた場が歴史の続く限り存続しますように。

拙ブログもそのような場の端に連なることができたならいいのだけれど。


そして、人間の問いは、答えられなければ意味がない。
問いの相手が天ならばそれは人間に望むべくもない願いであるが、相手が人間である場合、それはきっと答えられなければ、双方のモラルに反する。

たとえば本記事を書いている2018年2月現在、国会で審議されている労働裁量制は、特定の分野に従事する人の労働時間上の規定をとり払う労働制度である。
もし、その制度の下で労働者が規定以上の長時間にわたって働いた場合には

働き過ぎによる健康障害防止の観点から、必要に応じて、産業医等による助言、指導を受け、又は対象労働者に産業医等による保健指導を受けさせること
厚生労働省ホームページの裁量労働制「健康・福祉確保措置」より引用 http://www.mhlw.go.jp/general/seido/roudou/senmon/b1.html

とされている。
労働者と雇用者の間にある問題になぜ医師が介在するかというと、それが学識的な見地から問うて公正な判断を要する事だからだ。
その手順に、論理的または倫理的な問題はない。
しかし現実的な問いは、聞き入れられ、答えられなければ、問う人にも問われる人にも意味をなさない。

他者の問いを聞きそして答えること、すなわち他者との対話を、拒むことは、今日の日本社会で最も目だたず強力な、つまり効果的な暴力にあたるという例を見つけたので、紹介したい。

2018年01月26日 16:39

僕は今ここで、この事件の被告が過去に問われた犯罪行為とその被害者とその関係者にも、被告の関係者にも、東京拘置所の責任者とその上位に立つ権力者の実行している私刑的行為についても、彼らが携わる司法から守られる権利をもつはずの僕ら国民についても、なんら意見を述べるつもりはない。
ただ、もしもこの人の言うとおり6人の医師の診断が効力において裁判所の判断(ただしその6人とは別の医師1人の診断に基づく)に劣っているのならば、やはりここ日本において少なからぬ日本人(現実的に有力な人も非力な人も)が自分の現実において学識とそれを問う者に認めている力は、現実に学識や学者が行使し得る力よりも弱いことが見てとれると思う。
僕はたとえば一介の実務者として、自分の職務の土台を成す学識には実際にどのような他者でも説得できるくらいの力があるはずだと思うのだが、それらは実際のところ日本の世を渡るのにお金や権力といった他の力ほど頼りにならない。
だから、この日本で厚労省の定めた手順(医者の指導)は労働者の健康を権力者から守るために頼りにできないし、僕が「風土学を提唱したベルクさん最強じゃね?」と言ってみたところで賛同を得ることもできないと思う。

それは誰のせいか。
あなたは、実際のところとはどんな所で、現実とは何のことだと思うかと拙ブログは本書と共に問うている。

本書を読んで僕は、ベルク氏が「人間のすべての営みのいしずえとなり、モチーフとなるもの」と呼んだもの、すなわち人間を人間たらしめる最低限度の(=優先順位第一位で求められる)条件とは、他者と共に是非を問うことだと思った。
つまり

  • 人間とは、一人の人間として(自分自身として、かつある共同体の一員として)物事の是非(その物事は自分にとって何であるか、どうあるべきか、それについて自分はどうするべきか)を自分とまわり(問える相手すべて)に問う生き物である
  • もうそのように物事の是非を問わないことに決めた人は、人間でいられない人間失格となる、自分らしい人でいられなくなる、自分らしい人になれなくなる)
  • 他人にそのように物事の是非を問うことをやめさせようとする(例えば禁ずる、軽んじさせる 等)行為は、その相手の人間性を阻害する(人間でいる(人間になる)資格を奪おうとする、自分らしい人になれないように仕向ける)
  • 人が、どれほど重篤人間性に関わる病を抱えていたとしても、何事かに是非を問おうとする限りはその人間性を保持している
  • 学習を通じて物事の地理・歴史性(「風土」)を自分なりに理解し、さらに自分の主観においてその物事に是非を問うか否かは、あるものの人間性の有無につながる
  • 上のように人間性をもつものは(たとえ他者全員を害するような是非判断をするものであろうと)、人間性の性質上、それが関わる人間の共同体に加わる資格をもつ(それに関わる共同体は、人間性の性質上、それを自分たちと同列に受け容れるべく変容する必要に迫られる)
と思う。

最後の2点は、人間以外の生物・無生物も(それに関わる人間の人間性の範囲に影響を与えるという意味で)対象になり得ることだと思う。

何かを問う人や問いに答える人の方が、何も問わない人や何かを問われても答えない人よりも常に不利である。
なぜならば、何かを問うたりその問いに答えるためには、その問答の相手の人間性を、己の人間性に連なるものとして信じる必要があるから。
現実的に有効な問答(対話)は、問う側と答える側の人間性を連ねようとするため、必ず両者の既存の人間性を大なり小なり変えようとする。
そのような人間性の変容は、客観的に見ると既存の共同体の拡張かつ深まりであり、既存の人間性をふまえたその成長にあたる。
多様な人間が生まれ増え続ける以上、人間性の内容はひたすら広がり深まり続けるのである。
一方で主観的に見ると、人間が己の能力において他者(人でも物でも)を信じて何事かを問うた際、また答えた際、その信頼(期待)はその構造上必ず大なり小なり裏切られる
生物ならばみな、己の期待が裏切られた際には傷つくだろう。
今も昔も、人間が他者から傷つけられる(失望させられる、攻撃される、無視される、理解されない、理解できないことをされる 等)ことを恐れて起こす行動がまた本人や他者を傷つける、ということが様々な形でくり返されている。
人間が他者と接する際は、自分と相手の関係に是非を問わず一方的に「お前もこう感じると信じてる」と突き通す方が、そう突き通せる範囲に自分の世界を限ったり変えようとする態度の方が、心理的にはより優位を保てる。
それでも「人は出会うものすべてに向かって何者かとして立ちあがり、是非を問おうとしなければ、そうするように生まれついた生き物として不健全だ」と本書は説く。
人間には、自身を含め、自分が出会う物と者を選べるとは限らず、その問いは自身に快楽を与えるばかりではないのだが、人間は地理的・歴史的な象徴や技術を用いていることで既にそのような「是非を問う生き方(態度)」を選んでいるのだ。
そのような問いは実際、本人に過大なストレスを与え、そうして人間の全身、、に日常的にたまる老廃物を洗い流す器官として人間の涙腺は発達したのではないだろうか。

別に他者に問うても問わなくても、自分の接する他人も事物も、客観的に見れば自分とは別個のものである。
しかし、史上誰ひとりとして真に客観的な存在であったことのない(必ず主観をもつ)人間にとって、客観的な事実など問うに値する問題ではない。
一方で、自分にとってある他者やある事物が何にあたるのかという問題は上で述べたとおり本人の人間生命に関わる大問題であり、その人がその人らしい何者かとしてそこに存在するために断じて軽んじて良いことではない。
しかしそれを独りよがりに行ってはいけない。
「人間の営みは世界の詩から離れると、意味を完全に失ってしまうのだ」から、その意義が社会的に認められ真に血が通ったものとなるために、その根拠の社会的妥当性は大切な問題である。
だから科学が通用する社会において、客観的な事実は万人にとって(問うには値しないが)学ぶ、、理解する、、、、)に値する)。
人間にはせいぜい自分自身と仲間の感覚器の健全さを問うことしかできないのに、それを自ら儚みそれ以上のこと(客観的事実)をもって問い返そうとする(できないことをしようとする)人の態度は、史実を省みれば自身にとって不合理または無益な態度であり、自身を半身を共にする他者と共に滅ぼそうとする態度であると本書は説く。
人間の価値観にまつわるあらゆる事象=現実について客観的観点から述べられる意見は、たとえ短期的・部分的には意味をもつように見えても、世間話として話者の主体性に焦点を当てて論じられない限り、その現実を真に動かす力に欠ける。

僕の意見は過激に聞こえたかもしれない。
でも、すでに述べたとおり、僕は本書を読んで「すべての人はこう行動すべきだ」という意見をもち、そう主張し、それを根拠としてこれから何か行動を起こそうとしているのではない。
拙ブログは僕の意見を表明する場ではないし、僕はあなたに何かを実行するよう訴えているのではない。
そうではなく、僕は読者全員にいま僕の生きる世界である日本がどんな所なのか、どんな所になろうとしているのか、なるべきなのかを問い、答えを聞きたくて拙ブログを書いた。
もしある現実を変えようとする場合、史上誰よりも正しい意見を多くの人へ発したり、関係する物や人を物理的・生態学的に増産/減産・改変・移動・破壊 等することでその力量を調整することは、その方法として力不足である。
客観的な環境に対してどれ程大きく影響する行為も、結局は現実を共有している自分と相手が納得できなければ(理を得られなければ)現実的な意味をもたない。
人間の現実は客観的な事実と人間の認識から成るため、客観的な事実をふまえながら自他の認識を変える行為こそが最も深くそれを変える。
たとえ論破されようと、誰からも理解を得られないとしても、その意味が、理由がわからなければ、僕は人間としてもはや独りで本書の学説を支持し続けることも、それをあきらめることもできないと思って拙ブログを書いた。
僕は、あなたに問うている。
本書の主張について、あなたはどう思いますか、と。


読んでいただけてよかった。
ありがとうございました。

お終い