地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

2 人それぞれの風土学(ある地理学者の場合) -2

本書第八章の内容

さて、ベルク氏は第七章までで検証した「地理学は存在論であり、存在論は地理学である」(p.378)という学説を論拠に、本章で自分の思いを強い口調で主張する。

p.378 思想史にかかわるこの事柄を確認することで、現代のわたしたちに関連したごく具体的な規則を引き出すことができる―広い意味での領土の整備についてのわたしたちの計画の構想と施工について、建築、都市計画、景観整備、農村の土木工事など、風物身体にかかわるすべての行動について。

もう、それは強い口調なのである。
たとえば

p.397 飛行する物体と抽象画は、人間の住居としては望ましいモデルではない。少なくとも、建築学の教えに先だって、わたしたちの足が地球の中心を向き、大地の上にあるような惑星においては。

という調子で無基底主義を標榜する建築学の教授を批判したりする(飛行する物体とはその教授が自論の解説にもちだした飛行機のことである。ベルク氏は、建築の話なのに例が飛行機かよ!と憤ったそうだ。)。
しかし、地に足のつかない浮世離れした理論を支持する学者を除いても、この世を見渡してみれば飛行機に住んでみたい人はいるし、おそらくもう住んでいる人だっているだろうに。
前の記事から述べているが、僕はこの章はおそらく風土学の理論を振り返りながらも理論そのものを示しているのではなく、ベルク氏自身によるその実践がそのほとんどを占めると思う。
理論部分で明らかになったように、「風土」としての事物、人間の風物身体となった事物はそれに関わる(ベルク氏いわくそれと通態する)人間の本性たる心身に通じている。
本性たる心身とは、その人が自分の環境と通じ合って発揮する個性である。
たとえば好き嫌いのような、本人の意志で制御できない本人の気質もその一種である。
だから第八章の内容であるベルク氏の主張は、明らかに偏っている。
人間それぞれの生きる意味は、それを支える生のおもむき故に多様だから、その実例が多様つまりそれぞれ偏っているのは当然だ。
中庸でまったく普遍的だといえる現実など、そんな感覚を備えた人間など、存在しない。

多様性を認めるような普遍的な法則をどのように求めるか、は本書の主たるテーマである。
人の価値観がからんだ話を聞くことは、それを語る人間の価値観を、すなわち本人の人間性を聞き取ることである。
その話をさえぎったり「要するに~」とまとめようとすることは、その人の人間性のみならず人類は多様だという事実をも否定しようとする態度にあたる。

p.117 二人の人が同じ物理的な環境を解釈しながら、さまざまな中間的な見解がありうるにもかかわらず、まったく正反対の理解をすることがあるのである。こうした問題には、普遍的なものは存在しない。普遍的なところに進むためには、人間的なものを排除しなければならないが、これは自己矛盾である。人間的なものを含まない宇宙=普遍など、普遍的なものではないからだ。しかし科学的な抽象を実行するには、この不合理なこと、この虚構を想定しなければならない。これがどれほど不合理なものであるかは、この抽象を逆転して、それを風土エクメーネに重ねてみれば明らかになる。実際、理論ではなく実践において、〈他性〉を廃絶しなければ、こうした抽象を行うことはできないが、この〈他性〉こそが、人間の世界において人間性を作り出してきたものなのである。人間性とは、〈他なるもの〉を〈一なるもの〉、すなわちわたしという暴君のモデルに還元しないということにほかならない。

風土学の視点からは和辻氏のおかしな主張もヒポクラテスのこれまたおかしな主張も、それが想定する多様性の許容範囲だった。
本章のベルク氏の主張も必ずや〈他性〉つまり読者の視点を想定した、ツッコミ待ちの主張であるはずだ。
本書を読んだ方はぜひご自分の意見をもって本書にツッコんでくれれば、ベルク氏も本望だろう。

風土学による田舎・都市論

ところで本章の大筋の内容は、2018年現在の日本の都市と田舎の状況にそのまま通じる、と思う。
たとえば

  • 都会の住民の田園趣味(代表的な例は自動車と別荘という組み合わせ)が、田園の田園らしさを自然環境レベル~文明レベルで損なっているという不合理(p.380~)
  • 田舎が元来持つ「具体性とおもむき」で差別化して経済的に成功したサン=ジャン=ド=ビュエージュのワイン畑の例(p.386~)

p.389 風土性の観点からは、土地から住民を追い出すシステムは悪いものだ。逆に、持続可能で人間らしい生活条件のもとで、住民の数を維持するシステムは良いものだ。
p.389 こうした事例からえられる教訓を要約すると、わたしたちのような都市の社会には、田舎らしい田舎が必要だということになる。すなわち、伝統を受け継ぎ、わたしたちの感受性を作り上げてきた述語を裏切ることのない風景が必要なのだ。これは持続可能な生態系のうちで、食物を作り出している田舎の存在の客観的な根拠となる主語論理をつねに取り入れ続けることだ。

最後の引用を裏返すと都市とはまたどういう場であるべきかというベルク氏の主張も、首尾一貫していると感じられた。
もしかするとフランスの状況が日本の状況を20年ほど先どりしていたのかもしれないが、風土学の視点と一流の地理学者の広い視野がその状況の裏表を深くとらえ、いまの僕たちにも参考になるような冴えた金言が次から次へと繰り出される。
その妥当性は状況の類似より何より、物理的な環境と関係者の価値観の複合体たる現実がもつ原理の理解に基づいているからこそではないかと思う。
前掲の『物欲なき世界』に心ひかれた人などには特に、本書の一読を強く勧める。