地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

3 『風土学序説』が読者を得られなかった理由 - 2つめ

前の記事から続く)理由の2つめはいろいろあるのだが、一言でいうと本書が

読者にとって主題のわかりづらい本だった

ためである。

これは1つめの理由の原因にもなったのかもしれない。

本書の帯には

地理学から存在論へと架橋し、〈通態的理性〉の発言をめざす

と本書が扱う主題が紹介されている。
しかし、地理学と存在論のうちどちらが主なのか。
かなり方向性の異なるようにみえる二学問を組み合わせて何の話をするのか。
「通態的理性」という聞きなれない言葉は、何を意味するのか。
読者はこの紹介で本の内容が予想できるだろうか?

また、この帯の半分には、本書の目次が表記されている。

f:id:appalaried:20180224075238j:plain
全八章のうち 第四、五、八章の章名が著者の造語である。

本書には上の章名の他にも、ベルク氏の造語が多数登場する。
それらの造語はそれぞれ、ベルク氏が考え出した概念を表現するために独自の名前を与えられている。

ベルク氏はなぜ造語を多用したのか、既に使われている言葉だけで本を書けなかったのか?

なぜなら、ベルク氏は「地理学から存在論へと架橋」して、それまでに誰も考えられなかったようなことを考えたから(新しい概念を必要としたの)である。

そもそも書名の「風土学」も既存の学問ではなく、著者が自分の学説に独自につけた名称である。
前述したとおり、本書は地理学の本ではない。
また実は、その架橋先である存在論である、その専門家である哲学者の書いた本に類する、とも言い難い。
本書のテーマは、地理学と哲学のどちらにも関わるが、どちらの分野でもほとんどまともに論じられてこなかったようなことなのである。

詳しくは後述するが、そのテーマは地理学者が通常扱うようなテーマではなく、一般人が地理学に求めうるテーマの方にある。
前者は地誌や紀行であるが、後者は個人の私的領域ではともかく学者からは長く不問に付されてきた。
本書は、本書を扱う関係者から、上述の後者を扱うような例外的な本だとは理解されずに前者に類すると判断され、書籍としての分類が決定されたと考えられる。

本書の造語の使用についてはもう少し述べたいことがある。