地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

1 僕たちの「現実の見方」には問題があるのだろうか?

僕たちの従来の視点

前に簡単に述べたが『風土学序説』の主題

  • 僕たちが個人の目線で扱っている諸問題
  • 社会を俯瞰するような目線で扱っている諸問題

を統合してとらえられるような視点を示すことである。

この視点は何をどこから見るような視点なのかを具体的に説明したい。

まず、僕たちが従来もっている2つの視点に関して著者のベルク氏が述べたところを紹介する。

p.3 本書では、哲学と地理学において異なる形で取り扱われるいくつかの問題、すなわち存在と哲学の問題と、地球という惑星の自然環境の多様性と人間のさまざまな社会との関係という地理学の問題を〈総合〉すること、統一して示すことを目的としているのである。

原則として哲学、正確には存在論は、存在の問題を普遍的な用語で考察する。実際に、言語や文化が異なっても、「存在すること」はすべての存在に共通の条件である。同じ「ある」という語を使って、たとえば「日本人である」「フランス人である」「山である」「きれいである」などと表現することができる。ところで地理学は原則として、地球そのものにみられる多様性という視点から、地球の存在者の多様性を示そうとする。たとえば地理学は、山が日本とフランスでは違うこと、そこでは人間が違った様式で暮らしていることを示すのである。

p.18 存在の問題は哲学の問いであり、場所の問題は地理学の問いだと言い切ってしまうと、現実をひとつの深淵で引き裂くことになる。そしてこの深淵のために、わたしたちは現実を捉えることができなくなるのである。…哲学者は、絶対者のうちに存在を思い描くかもしれない。地理学者は、自分の調べている事柄には、存在など関係がないと思い込むかもしれない。そして普通の人間は、地霊、物の精神、宇宙の意図など、ごく不透明な幻想に頼ろうとするかもしれない。どちらにしても、そこに深淵が口を開く。そしてどちらも、わたしたちの実存に生気を与えるもの、つまり存在から目を背けてしまう。存在は…他のどこかの場所ではなく、いつも〈そこ〉にあるのである。

「存在」は存在する物つまりいろいろな事物のこと、「実存」については後の記事で述べる。
「絶対者」や「存在」という仰々しい言葉をよけながら上の文章を僕なりに解釈してみると、

  • 哲学の問い
    僕たちだれもが個人の視点をもって実際に生きる世界(現実)において、さまざまな事物について疑問をもったり考えたりすること
  • 地理学の問い
    社会という規模でみた世界(現実)、たとえば科学者が分析し政治家が判断を下すような世界において、さまざまな事物について疑問をもったり考えること
ではないかと思う。

あなたは日常、この2種類の「考えること」をどのように行っているだろうか。
この2種類の「考える」は、まったく同じ世界(現実)に関わっているのは承知の上で、しかし実際に考えるのはまるで別次元のことを考えるかのように、自分個人と専門家たちとで分担して考えるべきことであるように、感じていないだろうか。

本書によると、ある存在は、他のどこかの場所ではなく、いつも〈そこ〉にある。
一つの例として、あなたの住む町の町立病院がどこにあるか、またどこにあるべきかを考えてみよう。
昨今、自治体を含む様々な組織がコスト削減・合理化をめざして合併する傾向にあるが、その町立病院もそのような合併の機会にあると仮定しよう。
その新病院は、あなたの住む町、もしくは合併先の町のどちらに建つことになるだろうか。
それは新病院にかかる諸経費の負担割合、利用者(自治体の人口)の割合、既存の病院の科ごとのパワーバランス、適地の存在有無とその価格など様々な自然/社会要因で決まるだろう。
新病院のあるべき場所を上で引用した文章における「地理学の問題」としてとらえた場合、このような諸条件が浮かび上がってくる。
一方であなたは個人的には、その新病院がどこに建つべきだと思うか。
あなたはきっと、自分の住む町の方に建ってほしいと思うだろう。
これは、引用のとおりに「原則として哲学、正確には存在論は、存在の問題を普遍的な用語で考察」した場合、「誰でも(普遍的に)そのような病院は自分の住む場所の近くにあってほしい」ということであり、あなたによるその具体例にあたる。
このように、ある問題を地理学的に考えた場合(町や病院関係者にとっての新病院の立地)と哲学的に考えた場合(あなた、または万人にとっての新病院の立地の都合)とは、通常まるで別次元のこととして考えられるのではないかと思う。
ベルク氏は先の引用でこのように別次元のことだと感じることを、「現実をひとつの深淵で引き裂く」と表現している。

そして僕たちは、自分と社会の間に齟齬を感じながら「よくあることだ、現実なんてこんなものだ」と自分を納得させ、2つの妥協点をどうにか探すようにしながら暮すのが常ではないだろうか。
本書は、僕たちがこの「2つを別次元のことのように感じている」という事実を問題視する。

p.356 現実とはただひとつのものであり、三十六通りの現実があるわけではない。

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「それ、ひとつだよ」

「三十六通りの」というのはベルク氏が文脈上もののたとえで言っていることだと思うので(たぶん)、気にしないでほしい。
重要なのは前半である。
今・この現実はひとつなのに、社会の活動と自分の生活はしっくりと一体化していないということがままある。
たとえ大問題にはならなくても、僕たちはこのような解決しがたい矛盾を感じながら生きていくべきなのか。
そもそもなぜ僕たちは、当たり前の事実を見て矛盾を感じたりするのか。
ベルク氏は本書で、その矛盾は必然的に発生したものではなく、ある原因によって引き起こされていると主張する。
本書によれば、ある存在、たとえば先に例にとったその新病院には、「ただひとつの」、社会的かつ個人的に妥当な<そこ>という建つべき場所があるはずなのだ。

その場所を求めるためには地理学と哲学、または社会と個人、それら2つの視点を「〈総合〉すること、統一して示すこと」つまり、矛盾なくこの2つを同時に見る視点を提示することが必要なのである。
だから、本書にはたびたび「…の視点からみると」という言い方が登場する。

「近代の視点」
アボリジニの視点」
「中国人の視点」
テクノクラシーの視点」
「為政者の視点」
「科学者の視点」
エコノミストの視点」
文化人類学の視点」
「地理学者の視点」

たとえばこのような視点に加えて、ベルク氏は独自に「風土の視点」「風土性の視点」「風土学の視点」(それぞれほぼ同じ意味)を考えだした。
そして、それらの視点からみると現実はどうとらえられるかということを説明していく。