地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

4 地理学者が新しい学問を拓こうとした動機 -3

本書の要旨その2「存在の地理性」

序章でベルク氏は主に地理学と哲学のかい離について語る。
拙ブログではこれについて日本版への前書きから既に触れている。

要約すると

p.16 哲学者も地理学者も、たがいに違うものに関心をもっているのである。

ということである。

序章でベルク氏はこれら2つの学問の視点とともに、第3の視点から見えるものについても述べる。

p.16 ところで人間とは、地理的な存在だ。人間は、地理的に存在しているのである。一方で人間は絶対的なものへと向かう存在である。そして文化が異なると、絶対者への見方も異なる。しかし絶対的なものとの間には、ある必然的で特定の関係が存在しているのであり、地理学はこの関係を検討する。地理学は、大地において、天のもとで、物と人がどのように配置されているかを考察する。こうして、そこ、、そこにある、、、、、が構成されるのであり、これなしには存在論というものもありえないだろう。存在論について語るためには、まず人間であることが求められる。

たしかに哲学では現存在について、あるいは〈そこにある存在〉について語ってきた。しかしここにある〈そこ〉と他の場所にある〈そこ〉の違いを、適切に問うことのできた哲学はあるだろうか。この違いがあるからこそ、存在そのものも、他の場所にあるように、〈そこにある〉ことはできないのだが...。

この文章は地理学が問うべきなのに問うてこなかった問いを、また哲学が問うべきなのに問うてこなかった問いを説明するてがかりになる。

それはさておき、今はベルク氏による本書の要約を紹介する。

p.17 わたしたちが認識すべき現実とは、まず人間が地理的な存在であるという事実に直接に影響される…

人間は地理的な存在である ― この書物が十数万語を費やして語ろうとすることを要約するとこうなる。これはたんに、人間がいつも地上のどこか、宇宙のどこかに位置を占めてきたという単純なことだけではない。哲学の言葉で表現するとこうなるだろう ー この宇宙の拡がりのうちに棲みついた人間という存在者の特定の位置を確認することは必要だが、それだけでは不十分であることを認識すべきなのだ。それはたんに、さまざまな存在者が他の場所ではなく、〈そこ〉に存在する理由を解明することだけではない。

理由だけではないのなら、他にどういうことなのか。

上の文章は、田んぼに烏がいて蛙をねらっている、というたとえ話に続く。
地理学も哲学もその情景をそれぞれの方法で分析することができる、しかしそのような分析では「烏と田と蛙の関係」がそれを見ている人間の存在にかかわっていることに気がつけない、とベルク氏は述べる。

p.19 存在はまず「田に烏がいる」風景、または他のどのような風景にもあるものであり、他のどこかの場所ではなく、いつも〈そこ〉にあるのである。

…ここで問題になっているのは、地理学者が専門家としてなにをするかではないし、哲学者が地理学者をまねて、学問として地理学を営むかどうかでもない。重要なのは、人間という存在が大地(ge)にみずからの存在を刻み込んでいる(graphein)という事実であり、逆にある意味では大地によって刻み込まれているという事実である。地理(geographia)はまさに、この〈意味〉を問うのである。

この関係は、わたしたちの人間性そのものの基礎であり、人間性の条件である。

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存在はいつも〈そこ〉にある …?

こちらで述べられた本書の要旨は、前書きで述べられた要旨よりも詳しいが、より難解である。

人間と大地の関係が問題で…
地理はその〈意味〉を問う…
このかっこつきの〈意味〉は序文に出てきた「意味=おもむき」とどう違うのか…
地理的な存在であるとは、具体的にどう存在することをいうのか…

ベルク氏は最後に引用した文からさらに、「人間が地理的な存在である」ことについての詳しい説明を続ける。
その説明は、いま僕が2つ前の記事から問題にしていること、すなわち 「ベルク氏が気づいた新しい問いとは、何をどのように問う(視点である)のか」

「生き物の中で唯一、地理学や哲学のような視点を通じて世界とかかわっている人間というのは、(地理学者からも哲学者からもまだ正面きって問われたことがないが)本質的にどういう生き物なのか」
ということと同義ととらえて、その問いを深めていく。

しかし僕はまず、この問い自体をはっきりさせたい。
ベルク氏が気づいた新しい問い方とは、何をどのように問う(視点である)のか?

本記事の最初に引用した部分にヒントがあった。

地理学はこの関係を検討する。地理学は、大地において、天のもとで、物と人がどのように配置されているかを考察する。
ここにある〈そこ〉と他の場所にある〈そこ〉の違いを、適切に問うことのできた哲学はあるだろうか。この違いがあるからこそ、存在そのものも、他の場所にあるように、〈そこにある〉ことはできないのだが...。

地理学と哲学の間には確かに、人間が見て触れて考えることのできる問いがある。

p.16 この〈そこ〉の問題、あるいは〈そこにある〉の〈そこ〉の問題は、地理学の端緒そのものだ。地理学はこれまでいつも、地上にはまったく同じ〈そこ〉は二つとないことを示してきたのである ― 〈そこにある〉の〈そこ〉はつねに独特なものであることを。ところで哲学は実存を問題にし、存在について、存在の主体について問題にする。しかし哲学はそれと同じくらいには、この〈そこ〉と、〈そこにある〉の〈そこ〉を問題とすべきだったのである。ところが現状はそれとはかけ離れているし、多くの哲学者はいまでも、そのような考え方には憤慨するだろう。一方、地理学者も、物や存在が〈そこにある〉ことを考えるだけで、存在論のうちに根源的に含まれている視点から、存在について考えようとはしない。地理学者にとっては〈ある〉という言葉は、表現に含まれる繋辞の役割を果たすものにすぎない。それ以上のことを考える者は暇人にしかみえないのである。

事物がそれがある場所に「ある」ということは,、その地域性を問う地理学にとっては所与の事実にすぎない。
哲学全般について僕はよく知らないのだが、ベルク氏によると哲学は人や物が「ある」ということについてばかり研究して、なぜ「そこに」あるのかは問うていない。
地理学者と哲学者が分担して問うていたこれらを同時に問うと、「〇〇はなぜそこにあるのか」となる。
この問いを問う視点こそが第三の視点ではないだろうか。