地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

7 地理的問題の複雑さと決定論という誘惑

もしも地理学に普遍的な法則を求めたらば

『風土学序説』より、オギュスタン・ベルク氏が普遍性について述べた部分を拝借しよう。

p.114 普遍性universaliteという語は、宇宙=普遍(universe)という語から派生したものだが、宇宙=普遍という概念は、多様(divers)という概念に対立する。この視点にたつと、真理はひとつしかありえず、その他のものは誤謬である。…宇宙=普遍とは、すべての物がそのふところのうちにいることを許すものである。しかし語源的には、この宇宙=普遍の統一性とは、多様(divers)を暗黙のうちに否定する〈一性〉であることは明らかである。だから宇宙=普遍に到達するためには、現実の多様性が邪魔になり、これを克服する必要があるということになる。

ところで多様なものを廃絶すること、それは知覚の世界に暴力を加えることだ。この普遍化とは、多様なものを〈一〉に還元すること、現実をただひとつの解釈に還元することだ。そしてこれを実行するには、確固たる根拠が必要なのである。ところでドグマ的なものもまた〈一性〉を要求することを考えてみると、普遍的なものとドグマ的なものの境界がどこにあるかが疑問になってくる。これはなにを標準とするかという問題だろう。ガリレオの宇宙=普遍は、「普遍的なキリスト教の共和国」の名のもとに判決を下す異端審問の宇宙=普遍ではない。しかし普遍的なものを確立するということは、理性がどれほど堅固なものであっても、本質的には普遍化=一次元化するということだ。

ドグマとは宗教における教義のことである。

p.118 逸脱者への象徴的な暴力から、大量殺戮にいたるまで、一次元化はさまざまな形で他者の廃絶を引き起こす場合が多いことは、これまでの歴史が明らかにしてきた。

おわかりだろうか。
世界中の様々な地域と時代に渡り実際のところ限りなく多様に展開している事象をすべて受け入れるべき地理学に、なんらかの普遍的な原則を適用しようとすることは、その多様性の一部をまるで無いかのように扱わせ抑圧させうる、非常に危険な考え方なのである。

実際、過去にそのような原理を主張した地理学者たちは全員「決定論」と呼ばれる誤った論理に陥った。
そのような論理は、極端な場合には「気候が暑い地域の人々の気性は〇〇である」というようなまるで学問にふさわしくない、客観性を欠いた叙述になってしまう。
その中でも史上最大の被害を招いたのは、ナチス・ドイツと大日本帝国帝国主義を理論的に支えて正当化した地政学のような論理である。
この史実は地理学と関連する学界において深く反省されると同時に、地理学の学問としての深化に歯止めをかけてしまった。

p.353 地理学で、ヴィダルの「可能主義」が拓いた道が、概念的に掘り下げられることはなかった。ナチズムの忌まわしい誤謬のために、人間の実存の大地(Boden)の問題は長い間、血(Blut)で汚されてしまったからである*1。こうして思想の世界では、この問題はいわば〈閉じられて〉しまったのだ。歴史学は、地理学的な考察を放棄し、基而上主義の「ポリティカリー・コレクト」の声に魅惑されてしまっている。

地理的事象を見てそこに法則性を見出すのは、誰にでもできる簡単なことのかもしれない。
ただ、地理学の学問としての歴史の中で、一つたりとも間違いを犯さずに正しい原理を確立できた人は皆無であった。

地理学に原理を求めてはならないのか

しかし原理をもたないとは文字通り可能主義、すなわち可能ならば何でも許されるという態度と同義であり、学問という営みに必ず要求される態度を欠いているといえないだろうか。

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もうザウスはないけど、近場でスキーができたのは便利だったな

僕たちは実際「この世界では人間は何でもすることが可能だ」と考えて産業その他の活動を進め、以前は世界中どこに行っても見つけられた「地域性」をいまや根絶せんとする勢いである。
もうザウスはないけれど、現在はたとえばインターネットを通じて諸国の品を家まで届けさせたり「24時間365日いつでもどこでも同じように」暮らそうとする僕らの姿勢はあの頃よりもずっと強まっている。
なんらかの地域性を示す事物は確かに価値を認められ、保護活動の対象とされるようになった。
しかしそれが自身の経済力に裏付けられない文化遺産のような形で扱われる限り、地域性を具現化するような事物はそれ自体で存続し発展する力に欠け、近い将来、それらは遺跡と同列に扱われるようになるのではないかとすら思える。
この事実は、人の世の摂理なのだろうか。
ひたすらに利便性が追求され、目的に合致した=特徴のない街並みに、僕らは人として欲望を満たされ満足した生活を送れているのだろうか。
もし、まだ不満があるとしたら、それは「24時間365日いつでもどこでも同じような生活」の実現がまだ不完全なせいか。
しかし、日本の社会においても個人の生活においても四季感・旬やアウトドア活動への志向が高まるなど、この風潮への反動が現れて年々強まっているように思えるのだが…

地理学には本当に原理があるのか

自然環境と人間活動(社会)の関係に法則性はあるのか。
ある地域性(文化)にそのような形をとるべき理由はあったのか、否か。
これまでどんな学者もそれを解明できなかった。
僕は、きっとそこに原理があるとしても、事象の成り立ちが複雑すぎるために見つけられなかったのだと思う。

地理的研究は研究対象の多様性を分析することを本懐とする。
野心的な事業家が浜辺にスキー場を建てることだって地理学においては例外ではない。
地理学はそのような一見異例に見える人間活動でさえ、それが成立した時代背景や建築や人工雪に関わる技術等でもって説明しきるような広い懐をもち続けるべきなのである。
もし地理学者が人間の活動に例外を見いだすような態度をもち、その学術的見地からたとえば「この地域でこのようなことをするのは例外にあたる」などと言い出すとどうなるかは、記事の冒頭で述べたとおりである。
もし人文地理的な諸事象に法則性があるのならば、それを正しく解明できるのは複雑系を解析できるようなスーパーコンピューターなのだろうか。

ベルク氏は本書でこの謎に挑戦する。
ベルク氏が携えるのはコンピューターではなく、現代の人文地理学の理論とそれが成立するために要した諸学問の成果、そして古今東西の哲学書及びこれまで地理学が参照したことのなかったような諸学問の成果、それにベルク氏が肌身で感じた日本人の感覚と和辻哲郎著『風土 人間学的考察』である。
ベルク氏は地理学者としてもちろん、数々の決定論が犯してきた類の過ちの可能性を強く自覚している(と本書で明言している)が、それでもなお宣言したのだ。

p.6 日本のひとつの地域を研究することが、わたしにはもはや無意味と思われた。地域研究は、北海道について若いころに行った作業を(若い頃は情熱に燃えていたものだ)反復するにすぎないと感じたのである。それよりもわたしが関心をもっていたのは、日本についてのわたしの経験を活用して、世界についての一般的な問いを、適切な形で提起することだった。そしてわたしにはそれが可能だと思えた。

p.11 人生の秋を迎え、この書物の計画はおのずと熟してきた。これまで書いてきた他の書物はさまざまな状況から生まれたもので、つねに特定のモチーフに導かれていた。…ところで本書は、どうしても書かねばならないという感情だけで生まれた初めての書物である。

ここまで拙ブログを読んでくれたあなたも、ひとついっしょにベルク氏の話を聞いてみようではないか。
ある場所には何がどうあるべきなのか。
ある場所にふさわしいもののあり方とは、どんなあり方か。
たとえば人工スキー場ザウスはなぜ千葉県にあったのか。
ザウスは千葉県にあるべきだったのか、あるのはおかしかったのか、おかしかったならそれはなぜか。

それを問う前に、本書において地理学と同じくらい重要な役割を期待される哲学の視点が、この地理学の原理においてどのような位置にあるのかも確認しておこう。

*1:※脚注466 ナチズムの理論は、人間と領土の絆という考え方を体系化したものだった。この歴史の幻想的な自然化は、血と大地というモットーで要約された