地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

8 人の世の理

せめぎ合う人間活動と自然環境

ここまで、地理的条件の一種である自然環境から被る影響をより小さくするように発展してきた人間活動について述べてきた。

f:id:appalaried:20180301195835p:plain
今ではアウトドア活動以外のことはほとんど家の中で済んでしまうので、町にも行く機会が減ったかも

すると僕たちは、自分たちの活動の発展のはてに、自然環境による制約を完全に克服できるようになるのだろうか。

じつは平時は穏やかに人間の所業を受け入れている自然も、時に地震津波、豪雨といった人間活動を圧しつぶすような現象を起こす力を、常に秘めている。
いつ訪ねても消費しきれないほど豊富な商品を並べていたスーパーは、そのような災害によりあてにしていた流通網から切り離された途端に空っぽになり、僕たちを不安に陥れる。

結局のところ(地理学が扱う事象も含めて)どんな人間活動も常に天災と人災を問わずリスクを負い続けてきたし、今後もその事実は変わらないだろう
たとえ人間がそのリスクを小さくしようと努力しても、この世界からリスクの可能性は決して消せないだろう。
しかもそのリスクは、自然地理的・社会地理的な環境ばかりからもたらされるとは限らない。
リスクはさまざまな方面から、時には人間自身の内からも、実にさまざまな形をとって、思いもよらない時に僕たちの前に現れ、人間の理屈の通用しない形で僕たちの活動に干渉する。

人間の意志的な活動とそれ以外の要因すべてのどちらが勝るかは、その勝負が実際に決するまで判ぜられない、学問研究でとらえきれたことのない「この世の現実」なのだ。
地理学はもちろん、「〇〇はなぜ/どのようにそこにあるべきか」のような問いも含めて、その勝負についてなにかを説明したことはない。
そもそもそのような役割を期待されるのは地理学ではなく、その役割を担うのはたとえば宗教や…
…そう、哲学である。

とうとう地理学と哲学が出会う問いがくまなく見えた。

「(人文)地理学が研究対象とするこの現実世界の事象に原理はあるのか。あるとすればそれはどのような原理か。」