地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

9 地理学者に哲学的な問題を解決できるの?

哲学は哲学者の専売特許か?

人間の力は自然の制約を克服してきたが、時に自然に負けることもある。

人間が努力を積み重ねて築いたものが確かな進歩につながる一方で、偶然のいたずらですべてが無に帰することもある。
たとえそのいたずらがごくささいな動きだとしても、たとえば人ひとりが命を失ったり物ひとつが壊れるのはあっけないことだとしても、そのひとりや一つによって人間にとって測り得ないほどの価値が失われることがある。

なぜ、そんなことが起きるのか。
僕たちはどうすべきなのか。
このような問いを問う学問は(たぶん)哲学と呼ばれる、と思う。

このような問いを問うに一番ふさわしい人は、哲学者や思想家と呼ばれる人なのだろうか?

  • 実務において現実的な問題を解決している諸々の専門家
  • 波乱万丈の人生を送った人
  • 特に変わった経験を持たずとも、優れた感受性や表現力で他の人にはできないような表現活動を行う人

たとえば上のような人たちによる表現活動や創作活動は、時に哲学者の著した本よりも強く深く僕たちの心に響き、上で述べたような「哲学的な問い」の理解を助けてくれはしないだろうか。

僕は個人的に、哲学者の書いた哲学書を読むのが苦手である。
哲学者の書いた本は哲学者同士だけで通じる言葉でつづられ、語られる対象は条件をきっちり限られたサンプルばかりであるかのように感じる。
僕は、哲学者は問うことに専念するあまり、量や質において十分なサンプル収集には手が回っていないのではないかと疑っている。

しかし古今東西に延びる僕たちの現実は実際、多種多様なのである。

p.4 地理学は原則として、地球そのものにみられる多様性という視点から、地球の存在者の多様性を示そうとする。

地理学者は、多様な現実のありさまを専門的に研究する。
もし地理学者が「現実の原理」を問うた場合、哲学的問いの深さや表現力においては、適任とはいえないかもしれない。
しかし

  • 扱う現実のサンプルの多さ
  • それらを見る視点の学識的な適正さ
という2点では地理学者の右に出る者は他にいないと思う。
また、地理学者は学問の専門家として、他者からの検証に耐える学問の手続きを踏んだ論述を行う術をもつ。

地理学者と他の表現者や他学問の専門家との差

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僕は啓蒙書よりも漫画が好みだ

地理学者の視点の学識的適正さは地理学の実績によるところであるが、とくに過去に失敗した同業者たちという反面教師に教わったところでもある。
この「決定論に陥らないための心得」(詳しくはベルク氏の理論を説明する際に述べたい)は現実という複雑なものを扱うために欠かせない、そして他の学問においては得がたい、貴重な教訓である。

また、世間で「心に響く」主張をして指示を集める表現者たちの多くは、「個別の事例で摂理を暗示する」という形をとって表現活動を行っていると思う。

彼らが土台にすえるのは、実際に起きたできごとや、実際のできごとをモチーフにしたフィクションなどである。
それらは僕たちの現実認識を個人レベルで大きく変え得る力をもつ。
しかしその「個別の事例」は、僕たちの社会の基盤に影響を与える根拠としては不適格である。

もちろん「現実の見方」を変えた個人の集合が、大衆として社会を動かすことはよくある。
しかしその原動力は個人の心の動きによるところが大きく、率直に言ってつかみどころがない。
その一方で学者の唱える学説もそのように個人に対する影響力をもっていると同時に、さらにそれ自体が社会の基盤に直接働きかける正当性を備え、より効果的に社会に影響を与えられる資格をもっている。
(だからこそ先に述べたような危険性を抱えてもいる。)
学説という言説は個人の言説とは異なり、後から何度でも誰からでも検証されることで普遍性を問われる義務を持つ故、社会的正当性を獲得する権利をもつ。
世界中の文化を比較検討し総合的視点を組み立てることを専門とする地理学者は、「現実」を検証するのにかなり適した立場にいるといえると思う。