地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

1 『序説』の序 -1

「序 文化をふたたび自然に、自然をふたたび文化に」

上は『風土学序説』の序文のタイトルである。
本書の問いがはっきりしたところで、本書の内容に入ろう。

序文はすでに述べたとおり地理学と哲学とのかい離について述べた後、この二つの学問が接していながら直接扱っていない問題、つまりベルク氏が風土学として扱おうとする問題についての具体的な説明へと進む。

p.19 ただし、存在に地理性があるということは、地理学者が存在に自分の地盤を確保するほんらいの権利があるということではない。また哲学者が同時に地理学をすることで―たしかに有名な実例はいくつかある―、存在の地理性の次元を自分のものとして僭称する権利があるということでもない。ここで問題になっているのは、地理学者が専門家としてなにをするかではないし、哲学者が地理学者をまねて、学問として地理学を営むかどうかでもない。重要なのは、人間という存在が大地にみずからの存在を刻み込んでいるという事実であり、逆にある意味では大地によって刻み込まれているという事実である。地理はまさに、この〈意味〉を問うのである。

この関係は、わたしたちの人間性そのものの基礎であり、人間性の条件である。

ベルク氏は本書全体を通じて「大地」という語を使って、物や環境のことを表している。

ベルク氏は上の命題を、人間性の条件、つまり人間と他の生物との違いに焦点をあてて論じる。

p.20 たとえばシロアリやサンゴ科のビワガライシなどの動物は、自分のすみかを作ることで、大地の拡がりを大きく変えることができる。しかしこうした動物の本質は、地理的なものではない。これらの動物は、大地の特定の場所に住み、その痕跡を残すだけである。痕跡は、こうした動物の身体の過去および現在の物理的な場所と、じかに結びついている。

しかし人間という存在者は違う。人間が地理的な存在であるのは、人間の身体の物理的な定義をはるかに越えて、わたしたちそのものにおいて、大地の全体がかかわるからだ。こう言ってもいいだろう。人間であるということは、地球の反対側で起きることにもかかわりをもつということだ。それはたんに道徳的な意味だけではない。たしかに1995年5月17日に、ニュージーランド議会は、人間の人格にかかわるいくつかの権利を、類人猿にも認めようとする法案を否決したが、わたしたちはこれに無関心ではいられない。それはわたしたちに存在論的にかかわる問題だ。類人猿とは異なり、わたしたちの身体の限界を越えた遠い「あそこ」で起こること、わたしたちが足を踏みいれることもないような場所での事件が、わたしたちの実存そのものを構成するからである。

地球の反対側で起こることがわたしたちの存在を構成するというのはどういうことか ― それがこの書物が語ろうとすることだ。

僕たちは実際に見たり触れたりしたことだけでなく、言葉を介して聞いたり読んだりしただけのこと(重要なこと、そうでないこと、本当のこと、本当でないこと…etc.)にも実に多くを負いながら生きている。

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ベネズエラが仮想通貨を発行したんだって」「へー」

まずはこの事実について、「当たり前にできるからやっているけれど、自分はそのしくみを本当に理解しているだろうか?」と疑ってみてほしい。
この疑いが、この学問の入口になる。