地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

3 『序説』の序 -3

序文の問題提起

序文の提起する、そして本書全体の命題とはつまり

p.20 地球の反対側で起こることがわたしたちの存在を構成するというのはどういうことか

ということである。
「存在を構成する」は抽象的なので、僕なりに下のように言い換えてみたい。

地球の反対側で起こることがわたしたちの生き方や暮らし方を左右するというのはどういうことか

…どういうことだろう?

この文の後には

  1. この問いのヒント(答えは本書の本文で読んでね☆)
  2. この問いを問うにあたっては自分の「視点」を意識的に見直す必要があること(注意書き的なもの?)

が簡単に述べられ(詳細は本書の本文で述べます☆)、本書の序は終わる。

①この問いのヒント

を要約すると

動物の本質は地理的なものではない、しかし人間は地理的な存在だ(以前の記事の引用を参照)。

その内容は

  • 問い = 動物と人間を区別する特徴
    すなわち人間が地理的な存在であること、たとえば地球の反対側のできごとにも関われるような生き方(動物ならばそんなことは無理)とは、どのような生き方か

  • (ヒント)それは物(環境)と自分との関係の持ち方にみられる特徴である

となる。

p.21 デカルトが「延長のある物」と「思惟する者」を区別してからというもの、文化と自然の間には深淵が存在し続けてきたのである。

デカルトが「延長のある物」と「思惟する者」を区別した、というと哲学的だが、これは今も当たり前に通用している「物と人」を分ける視点、 たとえば僕ならば「物と僕」を分け、「環境(僕以外)と僕」を分けて現実を認識しようとする視点のことである。

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自分は主体、その他は客体、で合ってるかな

ベルク氏はこの視点を批判する。

p.22 存在の地理性とは、延長のある物が、思惟する者とほとんど異なるものではなく、延長のある物が思惟する者の存在そのものに参与しているという関係にほかならない。

この文章をふだんの言葉で言い換えてみると、
「存在の地理性とは、ある人のまわりの物や環境が、その人とほとんど異なるものではなく、それら物や環境がその人の生き方や暮らし方そのものにあずかり加わっているという関係にほかならない。」

はて。
僕のまわりの物や環境は、僕とほとんど異なるものではない、つまり僕とほとんど同じものだというのか。
「生き方そのものにあずかり加わっているという関係」とはどういう意味か。
物と僕の間や、物とあなたの間では何が起こっているというのか。

p.22 本書の目的は、この関係、地理学的であると同時にわかちがたく存在論的なこの関係を分析することにある。わたしはこれを風土(エクメーネと呼びたい。この言葉は、大地と人間について語る古いギリシア語のoikoumeneという女性形の語をもとにしたもので、大地は人間的なものであることを示し、人間性の大地を問題にする。

風土(エクメーネとは、人間の風土(ミリューの条件の全体性である。人間の人間らしさはここにある。ただしこの全体は生態的であるとともに物理的である。すなわち風土エクメーネとは、人間のすみか(oikos)そのもののことである。

出た、造語。

日本語に風土という語がある。
Wikipediaによると風土とは、「ある土地の気候・気象・地形・地質・景色(景観)などの総称という概念」である。
対して本書に出てくるほとんどの「風土」はベルク氏が発案した概念を表す。

ベルク氏は、本書の原本にあたるフランス版では「エクメーネ」または「ミリュー」という概念を用いながら本書を執筆した。
そして本書を日本語に訳す際にこれら2語をどちらも「風土」と訳し、元の語のルビをふるという表し方を選んだ。

異なる語を1つの語に訳した理由は、「エクメーネ」と「ミリュー」はどちらも日本語でいうところの風土にあたる、とベルク氏が考えているためである。

p.3 わたしは風土(エクメーネ風土(ミリューという二つの語の違いは、尺度に関するものにすぎないと考えている。だから翻訳ではどちらも風土と訳し、区別が必要なときには、ルビで違いがわかるようにした。

ただしベルク氏は語義のためだけでなく、思想的に強い影響を受けた『風土 ― 人間学的考察』の著者「和辻に敬意を表するため」にも「本書のタイトルに「風土」という日本語を使った」(p.4)とも述べている
さらにベルク氏は自分の発案した「風土」の名称を元にして「風性」と「土性」という日本語にまったくない概念をも発案している。

このように、ベルク氏の発案した「風土」は、もはや僕たちの知る日本語の風土という語にはない意味を帯びている
このことを覚えておいてほしい。
そもそも僕たちが知る日本語の風土も、状況によって「風俗」寄りの意味であったり「地理的条件」寄りの意味であったりいろいろな意味を表し得て、その意味するところが定めづらい。
哲学の専門家もそうでない方も、ベルク氏の言う「風土」の意味が十分理解できるまでは、さしあたり日本語の風土とは違うまったく新しい概念としてこの語にのぞむ方が、本書の理解を進めやすいと思う。
拙ブログでは以下、このベルク氏オリジナルの概念を、引用以外では「風土」とかっこつきで表記する。

なんともわかりづらいのだが、それでもしかしベルク氏はとてもセンスある選択をした、とも僕は感じている。

p.3 この二つの語に同じ訳語をつけることを選択したのは、本書の全体の深い意図によるものである。本書では、哲学と地理学において異なる形で取り扱われるいくつかの問題、すなわち存在と哲学の問題と、地球という惑星の自然環境の多様性と人間のさまざまな社会との関係という地理学の問題を〈総合〉すること、統一して示すことを目的としているのである。

ベルク氏が「風土」という語に込めた意味は、近代以前の日本人の感じていたもの、現代の僕たちにはいまだ実感できない感覚をかなり正確に表現しなおすことに成功したと思う。
ぜひあなたも本書または拙ブログを読んでから考えてみてほしい。

さて、この「風土」が、本記事の最初で述べた①=問いのヒント、すなわち
動物と人間を区別する特徴
=ものとの関係のもち方(人がものと結ぶ関係)
=地理学的であると同時にわかちがたく存在論的な関係

であり、また本書のキーワードである。

序文についてはあともう1記事だけ、ベルク氏から読者への注意喚起(?)について説明する。