地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

4 『序説』の序 -4

序文の注意書き

『風土学序説』の序文でベルク氏は、本書で近代的な視点を疑い、それに代わる視点を築こうとしているのだという姿勢を示す。

p.21 実のところ、存在の地理性を考察することによって、人間科学であたりまえのように前提されてきたいくつもの基本的な考え方を、根本から見直す必要があることが明らかになる。まずこうした公準がどのように自然科学において分節されてきたか、というよりも、分節されてこなかったかについて再検討する必要がある。この考察から明らかになるのは、愚かしい科学主義の罠に陥らずに、いまの分節方法について思考する可能性があるということだ。この新たな千年紀のはじめに、わたしたちの近代が文化と自然の間にうがってきたこの深淵から、この可能性が浮かび上がり始めているのだ。デカルトが「延長のある物」と「思惟する者」を区別してからというもの、文化と自然の間には深淵が存在し続けてきたのである。

近代的な視点とは簡単にいうと、現実を「主体と客体」や「自分と自分以外(=環境)」の二項でとらえるような姿勢、主客二元論である。
そのような視点から見た世界は事実と異なるとベルク氏は主張する。
本文の中でも、ベルク氏はこの今日常識的な視点を覆してその視点が隠している真実を見せようとしていることを示す。

p.146 いつか近代を超えて、そこから人間の事柄についての帰結を引き出すべきときがくるだろう。本書の結論部分が試みているのは、まさにそのことだ。

本書でベルク氏は、本書のキーワード「風土」やそれと関連する諸概念を用いて、現実認識に新しい切り口を与えようとする。

p.22 風土(エクメーネとはひとつの関係であることを、もういちど強調しておきたい。人間が、地球の拡がりに対して生態学的、技術的、象徴的にもつ関係、それが風土である。だから風土は、地球の物理的な存在の物質性だけにかかわるものではない。また人間の集団の物質性だけにかかわるものでもない。昔からこうしたものは計測できるものである。当然ながら風土はこれにかかわるが、それだけでなく、それぞれの人間のうちで続けられる実存の展開にもかかわらざるをえない―この実存の展開は同時に、身体の外形の輪郭をつねに超越していくものである。だから風土(エクメーネとは、計測できるものとともに、不可測なものにかかわる。地平線においては、大地は空と見分けがたくなる。同じようにわたしたちの存在は、わたしたちの指が届く限界を越えて、地球の反対側に、惑星である火星に、そして宇宙の涯のもっと遠くまで、いつも拡がっているのである。

風土(エクメーネ、そしてそこにあるすべての人間の風土(ミリュー。それであり、それ以上であるもの。

「この実存の展開は同時に、身体の外形の輪郭をつねに超越していくものである。」
本書ではこの哲学的な雰囲気の文章が、地理学者らしい具体的な言葉で明確に説明される。
上の文章は具体的に何を表しているのかわかりづらいかもしれないが、本論で詳しく説明されるので、後でまた読み返してみてほしい。

人間性とそれが生み出した関係、どちらから始めるべきか

序文で述べられた本書の主題を整理すると

(問い)人間は地理的な存在である(だから地球の反対側で起こることがわたしたちの生き方や暮らし方を左右する)とは、どういうことか

(答え)人間は地球の拡がりに対して生態学的、技術的、象徴的な関係(=「風土」)をもつ。
 その関係に、人間を動物と区別する特徴=人間の人間らしさ(人間性)がある。

この関係と人間性は、いわゆる「卵が先か鶏が先か」の卵と鶏の関係にあると考えられる。
僕たちの人間性と、その人間性のせいで僕たちとものを巻き込んで拡がる関係「風土」。
本書の主題の説明はこのどちらからでも始められる。

p.23 しかしまず物が〈そこにある〉ことの地理性から考えよう。そこから人間の実存が始まるのだ。本書における人間の風土(ミリューの考察は、ここを経由する。

本書の序文はこのように締めくくられ、「第Ⅰ部〈そこにある〉の〈そこ〉」から本論が始まる。
ベルク氏は近代の視点からみた物(近代的な人と物との関わり方)と、本書の標榜する視点からみた物(「風土」)がどう異なるのかを検証するために、まずその物が存在する「場所」についてギリシア哲学の概念を使って検証を繰り広げる。

拙ブログは、僕にとって難解すぎるこの第Ⅰ部はとりあげない。

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難解なところはすっ飛ばして紹介します。

しかし拙ブログも本書にならい、人間が物と結んでいる関係=「風土」の説明から始めよう。