地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

2 2種類の学者が物を説明するとしたら

現実にある物はどのように説明できるか? (例)鉛筆

現実の多様性を研究する学問・地理学に携わるベルク氏は、現実の事物は具体的に扱うべきであること、要素を抽象してその具体性を消して扱ってはならないことを強調している。
もしこの現実を具体的にとらえた場合、古今東西じつに多様な事物事象が存在するのだが、ベルク氏は1つの例でその説明を試みる。

p.159 簡単な例から、考察を始めよう。わたしが1999年8月に、日本の旅館の廊下で天体物理学者のケネス・ブリーチャーと交わした会話を、ひとつの例としよう。話題となっていたのは、現実というものの地位である。どこまでも地球にこだわるわたしの議論にうんざりしたブリーチャーは、事態をはっきりさせようとした。「よし、それではこの鉛筆について考えよう。これはなにかね」...。

だからここでも鉛筆について考えよう。

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この2人とこの鉛筆

これから僕は、ベルク氏がこの鉛筆を例にとって行った「現実の説明」を、図を用いて解説していく。

この話は

  1. 天体物理学者=近代西洋思想の物の見方(をする人)
  2. 地理学者=自分の感覚にもとづいた物の見方(をする人)
を暗示しながら進められていく。

p.159 天体物理学者はまず時空における鉛筆の位置を定めてから、分析を始める。その外見、質量、構成要素など...。そして最後に彼はこれを「鉛筆」と名づけ、こう締めくくった。「これが鉛筆さ」。

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この鉛筆とは、こういうことさ。

p. 160 ところで地理学者は鉛筆を手にとって、それを調べ、使ってみて、こう結論する。「これは書くための物だ」。

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そんなことわからなくても、使うことはできるだろう。(それがわかっていても使えなかったらしょうがないだろう。)

p. 160 わたしたちはこれで「鉛筆」のすべてを理解しただろうか。おそらくこれですべてだろう、「暗い物質」、天体物理学でも把握できない質量を別とすれば。

つまり

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この鉛筆のすべて

だとベルク氏は言っている。

ある事物の認識できないものを除くすべて、すなわちある事物について説明できることのすべてとは
いわばその事物のトリセツである。

※トリセツとは取扱説明書を略した言葉である。
 語感がキャッチ―♪なので略して用いたい。

この鉛筆は、ベルク氏が現実を説明するためにもちだした例だった。
つまり

 ある具体的な現実(ただし認識不能なものを除く)
=①天体物理学者の視点から説明できる側面+②地理学者の視点から説明できる側面
=ある現実のトリセツ

ということになる。

ベルク氏は上で述べたことを下のように言い換える。

p.161 鉛筆は、アリストテレス風にトポスによって理解するか、プラトン風にコーラによって理解することができる…

ベルク氏が「アリストテレス風」「プラトン風」という言葉で表現しようとした内容については、次の記事で詳しく述べたい。
今は現実のトリセツに注目する。

ベルク氏はこの2種類のタイプの視点をそれぞれある概念で表す。
本書では

  1. 天体物理学者がアリストテレス風の視点から説明する物の側面は「トポス」
  2. 地理学者がプラトン風の視点から説明する物の側面は「コーラ」
と呼ばれる。
拙ブログでもこの語を使うので、覚えておいてほしい。

つまり
ある現実のトリセツ=
アリストテレス風の視点から理解できる側面(その現実のトポス)

プラトン風の視点から理解できる側面(その現実のコーラ)

であるとベルク氏はいう。
(①は天体物理学者の視点から見えるもの、②は地理学者の視点から見えるもの)

現実のトリセツ < 現実

上で示したとおり、ある現実のトリセツとはある具体的な現実(ただし認識不能なものを除く)である、つまり現実未満である
ベルク氏によると、現実の事物にはどちらの視点からも理解できない「欠けた質量」というものがある。

p.160 この二つの考え方は異なる。しかしどちらも、欠けた質量について理解できなければ、鉛筆の存在については部分的にしか把握できないとは言わないことで共通している。それではこの二つの考え方で、鉛筆の存在に欠けている〈質量〉とは何か。

ベルク氏は、その欠けたものは天体物理学者・地理学者どちらの立場からも直接はとらえられない「存在論的なみかた」(同頁)でとらえられるものであると言い、ドイツの哲学者ハイデガー(1889-1976)の書いた一節(壺と葡萄酒で宇宙現象や聖現象を表す一節)を引用する。
ハイデガーによる文章は、基本的にとても難解である(ベルク氏も本書内でそう評している)。
ベルク氏はそれを引用した上で、

p.161 この方法を鉛筆に適用するのは、(たとえそれが天体物理学者から受け取った鉛筆としても)困難なようである。だから、壺についてのハイデガーの描き方とは違う方法で進もう。そしてわたしたちの鉛筆の場所、世界、宇宙がどのようなものかを問うてみよう。存在そのものについて語れない場合には、それがどこにあるかを明らかにすれば、その周辺を描くには役立つものだ。

といって独自に説明を始める。

2人の学者が話すことはまだ現実のトリセツまたは現実のありか、現実の器全体とでもいうようなことにすぎないことを心に留めおいてほしい。
本書のめざす現実全体の話は、2人の話が済んだ後のことになる。