地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

4 地理学者から見た「この鉛筆」

地理学者の説明はプラトン

p.162 それではわたしたちの鉛筆のコーラとはなにだろうか。コーラについて考える場合には、生成として考える必要があること、固定された同一性としてではなく、なにか生まれ出るものとして考える必要があることを思い出そう。この同一性は、鉛筆のイデアの同一性であり、ここではかかわりがない。またコーラは物が存在するために不可欠なものでありコーラと物の存在は分離できないこと、コーラは刻印されたものであると同時に母型でもあることを思い出そう。このことから、鉛筆のコーラをそのトポスに還元できないのは明らかである。コーラはその物質的な場所にも、その外形にも還元できない。

この鉛筆の例は『風土学序説』の第四章から引用している。
オギュスタン・ベルク氏はこの例を持ち出す前、第一章において、

p.31 古典古代のギリシアでこのコーラという単語がなにを意味していたかを考えるために、プラトンの『ティマイオス』でこの語がどう使われていたかを調べてみよう。

と述べ、このコーラという古い語が意味すること・過去に意味していたことを検証している。
冒頭の引用文はそちらの検証をふまえて述べられている。

拙ブログでは『風土学序説』について僕の理解が追いつかなかったギリシア哲学に関する部分は割愛し、この鉛筆のようにごく具体的な話に絞って紹介する。
以下、この鉛筆について述べられていることを述べられたとおりに受け取りながら考えてみたい。

コーラ = 物が存在する関係の網の目

鉛筆のコーラについて、ベルク氏は上の引用文から続けて以下のように説明する。

p.163 それでは鉛筆の物質的な場所に還元できず、外形を超えてしまうこの場所とはどのようなものだろうか。これが鉛筆の風土ミリューである。すなわち鉛筆が存在する関係の網の目である。それなしには鉛筆というものは存在しえないのである。

風土ミリューが何なのかはちょっとわかりづらいので、先に「関係の網の目である」とはどういうことかを確かめよう。
著者はこれを具体的に説明する。

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これは何かというと…(考え中)

p.163 地理学者の鉛筆の定義も、すでに同じ方向に向かっていた。「なにか書くもの」ということは、まず象徴的な体系、すなわち書き物を想定する。そしてこれは別の象徴的な体系、すなわち書き物が示す言葉を暗黙のうちに想定している。どちらの象徴的な体系も、人間とのかかわりを想定する。これらの象徴的な体系を表現の手段として利用しながら意志を伝えあう人々を想定しているのである。別の視点からみると、書き物は技術的な体系であり、そこには自然と人工の多くの物、とくに物質的な物の存在が想定されている。たとえば鉛筆を生産する材木を作り出す森林、鉛筆の芯の生産に使われる結晶した炭素、紙を生産するための製紙工場(鉛筆は虚空には書けない)、書くための紙を置く机などである。

これらの技術的および象徴的な体系および生態学的な体系が(人間は地球に生きているのだから)、鉛筆の実存的な場を形成する。鉛筆が存在するためには、こうした場が必要なのである。しかし鉛筆はどのような意味で生成なのだろうか。たしかにこれまで述べてきた条件が、鉛筆が存在するための〈母型)であるのはよくわかるが、それではどのような意味で〈刻印〉となるのだろうか。答えはすぐに出る。広い意味での〈鉛筆〉、すなわちなにか書くためのものがなければ、書き物はないだろう。そして鉛筆を製造する技術的な体系というものもないだろう。こうした体系はこの目的のために生み出されたものなのだから。少なくとも、鉛筆の一次原料としての森林そのものは存在しないだろう。森林は、もっと別の関係で、もっと違った形で存在するだろう。

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この鉛筆がここに現れるまで&どこかに消える(使い切られる)までに通る関係(の網の目)

p.164 鉛筆の存在をそのトポスだけに制限するのは、客観的とはいえない。存在するためには、客観的にもコーラが必要だからだ。またコーラが主観性をおびていると主張するのも誤りだろう。森林も製紙工場も客観的に存在するのであり、鉛筆が存在するためにはどちらも客観的に必要だからだ。

これは常識的に理解できることだと思う。

p.164 しかし一方で、鉛筆が存在するためには象徴的な体系(書き物、言葉、行為者など)も存在する必要がある。これらの象徴的な体系は、文学、恋文、紙幣、思想、創造などの力によって、とくに主観性の強いベクトルとなるのはたしかだ。

コーラすなわち関係の網の目は、確かにこの地球上に客観的に存在する。
しかしこれは僕たちの主観から切り離せるような純粋に客観的な対象ではない。
その関係の網の目は鉛筆のまわりに自ずから姿を現しているわけではなく、僕らが鉛筆について考えることで初めて確認できる。
そしてその関係は、この鉛筆を使う僕やあなたの主観や主体的な行動につながっている。
つまりいまここにはこの鉛筆だけがあるのだが、もちろんここに突然出現したのではなく、僕やあなたに使われるようになるべく、書き物一般が古代から中性へと歴史をたどり、そして現代の森林から原料が切り出されて工場を経て、つまりいろいろな意味で過去から遠い時空を経てやってきて、未来には別の時空へ影響を与えていく物として、今ここに直接は見えない背景の連環上にあるのだともいえる。
ベルク氏は本書第一章で学者としてコーラの定義を客観的に明らかにしようとするが、このような関係の網の目は確かに「今のここ(この鉛筆)以外にある」としか言い表しようのないものである。

こうしてある鉛筆を2つの側面に分けてみると、トポスは(今)そこにある鉛筆自体、コーラは鉛筆がいまそこに至った背景(過去)と存在意義(未来)ともいえる。
この2つはどちらか一方が鉛筆の本質なのではなく、必ず2つセットになることで「この鉛筆」が実現するのだ、とベルク氏はいう。

物が存在する関係の網の目 = 物の風土ミリュー

前に引用した文をもう一度見てみよう。

p.163 それでは鉛筆の物質的な場所に還元できず、外形を超えてしまうこの場所とはどのようなものだろうか。これが鉛筆の風土ミリューである。すなわち鉛筆が存在する関係の網の目である。それなしには鉛筆というものは存在しえないのである。

先に説明した「鉛筆が存在する関係の網の目」を、ベルク氏は鉛筆の風土ミリューと呼ぶ。
これはどういうことか。

ベルク氏は鉛筆のトポスとコーラについてこう述べる。

p.164 ここでまとめてみよう。鉛筆の存在は、その物質的な場にあると同時に、その実存的な風土・場ミリューにある。トポスにあると同時に、コーラにある。

つまり、この鉛筆はそのトポスとそのコーラが重なるところに存在する。

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トポス(面)とコーラ(面)で1本の鉛筆を完ぺきに説明できます。

コーラ、すなわち物が存在する関係の網の目のことをベルク氏はなぜ風土ミリュー風土・場ミリューと呼ぶのか。
これを理解するためには、トポスとコーラが実際どのように重なっているのかを理解する必要がある。