地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

7 人間が物を把握しきれない理由 -2

僕たち人間には、たとえ科学技術がどんなに発達しようとも物について認識できないこと、すなわち「覆われた実在」「物の真の本性」が残る、とベルク氏は主張する。
そのいまひとつの理由は、可能性の問題ではなく、理屈上の問題である。

主語論理

ベルク氏は僕たちの認識について、二種類の論理をもちだす。
一方は

p.245 アリストテレス以来の西洋の思考の基本方法である排中律矛盾律とか、主体の同一性の原則とも呼ばれる)に基づいた合理的な推論

すなわち「主体の同一性の論理学」(p.249)であり、ベルク氏はこれを「主語論理」と呼ぶ。
この論理を一言で表すと

p.154 「Aは非Aではないものである」という二項対立の関係を示す原則

である。
先に登場した天体物理学者はこの論理を前提として、物をそのトポスにおいて認識している。

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これはこれ、それはそれだ。

述語論理

もう一方の論理は、プラトンがコーラと呼び、哲学者の西田幾多郎が場所と呼んだ概念にまつわる論理である。
詳しくは『風土学序説』にあたってほしいのだが、一言でいうと

p.154 人間の言葉によって物を叙述するという三項的な原則、すなわち「SはPである」という原則

である。
Sは主語、Pは述語を表し、つまり「主語は述語である」という原則だ。
その説明をつなぎ合わせてみると、

p.246 Aは非Aではないことを確定するためには、確定するための場所を想定する必要がある。

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場所?

p.246 この場所、すなわち述語は、わたしたちにAの性格について語ると同時に、非Aの性格についても語る暗黙的な述語である。

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たとえばどういうこと?

p.246 述語「これである」は、それ自身がもっと広い述語、「これ」の性格について語るもっと広い述語を想定している。一例をあげれば、「ソクラテスは人間である」は、「人間」という述語についての述語、たとえば「人間は哺乳動物である」を想定する。そしてその後もこのように続くのである。
p.249 ところで務台理作は、排中立の論理は、対立によって定義される項を想定するものであり(Aは非Aではない)、「ではない」という無限後退を示すものだから、真理の統一に決して到達できないと強調している。これに対して場所の論理ではこの真理の統一に到達できるという。

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入れ子状になっているってことか

「AはAである」とは異なるが、「主語は述語である」もそれはそれで適正な論理である。
ベルク氏はこの物を入れ子構造で説明しようとする論理を「述語論理」と呼ぶ。

p.254 〈自体存在〉とは、その定義からして、わたしたちには決して把握できないものだからだ。わたしたちは物をともかく把握するが、これを把握しているという事実そのものが示すのは、わたしたちの世界の条件のうちで、物を必然的に「述語づけ」ているということである。

たとえば地球の地殻変動に付随して地表が揺さぶられることを僕たちは「地震として」把握する。
でも僕らは必ずしも、それが地球の惑星レベルの運動であることやその振動の実際のところを事実としてすべて理解しているわけではない。
しかし人間は自分の出会った事物をともかく認識したなりに把握しようとし、地面が揺れることをすなわち「地震」と名づけた。
このような人間なりの物の認識の仕方を、ベルク氏は「述語づけ」と言っている。

僕たちが現実を認識する過程

では、僕たちの現実認識においてはどちらの論理が本質的なのか。
ベルク氏は両方の論理が欠かせないという。

p.249 わたしはごく一般的な形で、主体の同一性の論理学は、物そのものの論理であり、場所の論理は、物を理解する方法の論理だと解釈している。…たしかに物を理解する方法は、物そのものではない。物と物を理解する方法を同じように考えるのは、隠喩なのだ。他方で務台が示したように、排中立の論理では、物を把握することはできない。実は〈把握〉するという事実そのものが、この論理に反する。〈把握する〉というのは、主語を述語のうちに包摂しながら、場所の論理に戻ることである。

上の引用部が、この記事の主題「人間の認識には(たとえ科学を無限に発達させても)なぜ限界があるか」の理由にあたる。 人が物を把握するという行為は、論理的に排中律(物の同一性を示すための論理)からはずれている。
何かを(人の価値観において)把握する(=ある名称で呼んだり形容する)という行為は、たとえ言葉の上で正しい主語を冠していたとしても常に述語論理を含んでいる。

p.249 この二つの論理が相互に補足的な関係にあるのは、わたしには明らかなことにみえる。そしてわたしたちの無意識が、この二つを組み合わせることで、わたしたちにとっての現実が生まれる。この二つの論理のどちらかだけを選ぶのは、非現実的なのだ。

ただし、物自体のあり様を無視して物を把握することはナンセンスである。
もしも主語論理を否定して述語論理だけを支持しようとした場合

p.249 この論理は、物の本性というものを必要としない。それをみずからの述語性のうちに、絶対的に包摂してしまうからである。物とは、わたしたちがそれについて語ることであり、それでおしまいというわけだ。

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主語と一致しない述語ではナンセンスである

物自体のあり様を不完全ながらも真摯にとらえようとすることが、「物を把握する」ことである。

p.249 主体の同一性の論理は逆に、世界があることを絶対に禁じる論理である。この論理に可能なのは、わたしたちの実存から疎外されている物の〈自体存在〉だけである。これは純粋な普遍性の論理であり、物がまったく意味をもたない論理である。ごくわずかな意味=おもむきがあるだけでも、物は世界性のうちに墜落してしまうだろう。

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鉛筆はしゃべらないけど、あくまでも一つの例なので。

つまり、僕たち人間が把握する「物」は、どうしてもそれと自分との関係における「物事」になってしまい、ありのままの物そのものとは常に多少ずれている。
これは人間の脳の器質に由来する必然であるとベルク氏は主張する。

p.368 思考はその一部しか意識にのぼらせない。そして残りの無意識の部分も、思考の一部を構成しているのである。ということは、わたしたちは意識においては、みずからの一部しか述語できないということだ。残りの部分はもっと広い自己述語にかかわるものであり、集合的な無意識と呼ばれる。これは自分と似た人類に、さらに深い意味では生に、究極には宇宙に由来するものである。意識はこの自己述語の上位の部分にすぎない。そして意識に対して下位にある部分は、述語に対して主語の位置を占めるもの、決して述語にならないものである。それはわたしたちの自然ということだ。デスパーニアの物理学における〈実在〉の概念や、ハイデガー存在論における〈大地〉の概念のように、そのものとして把握できないものである。これは、認識される運動そのものにおいて、述語に変わってしまうからだ。

本記事の論点は「人間には論理的に、現実においてどうしても認識できないことがあるが、それはどういうことか(どういう論理で認識できないのか)」だった。
その論点からははずれるが、上で引用したことを裏返すと、僕らが半ば無意識に認識している現実のあり様を正しく理解するためには、その現実において主語にあたること(ただしどうしても言葉に表わせない面を含む)と述語にあたることを区別し、そのどちらかを取りこぼすことのないように気をつける必要がある。
本記事で引用したとおり、「この二つの論理のどちらかだけを選ぶのは、非現実的なのだ。」から。 人間の現実は常に主語と述語のセットで構成されているということは、主語と述語を混同したり、主語だけや述語だけで考えたり話したりする行為は、そう考えたり話したりする人の現実認識を歪める。

さて、この二つの論理をふまえて現実全体の構造、すなわちトポスとコーラ(現実のトリセツ)と認識不能なものがどういう形で組み合わさっているかを示そうと思う。