地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

8 「風土」は物事の構造を表す

「風土」という物の姿

ここでやっと、以前に出した問題に戻る。

トポス(物の物質的な場所)とコーラ(物が存在する関係の網の目、人間も多数参加している)が重なって、現実(たとえばこの鉛筆)が実現する。
その鉛筆には実は、人間に認識され得ない側面も含まれている。
あなたが現実(この鉛筆)を認識するとき、そのトポスとコーラは実際どのように重なっているのだろう。

p.253 現実は世界と物の自然(大地)、コーラ性とトポス性、述語論理と主語論理を分かちがたく結びつける。これを記憶しやすいように図式化すると、次のようになるだろう。

現実=大地/世界

あるいは

現実=土性/風性

または

現実=主語論理/述語論理

ここで物の土性(主語論理)は、固有のトポスに閉じられた同一性のうちで、物が物自身であることである。ここでは物には述語がつけられず、その極限では、物そのものを把握できない。物の風性(述語論理)とは、その反対に物に述語がつけられ、わたしたちの意味=おもむきと知性によって把握され、名づけられることである。わたしたちと物との関係によって物の性質が定められ、わたしたちの手によって構成される。これは、人間の作品として、わたしたちの世界を展開するのである。 コーラ性とトポス性の間には、二律背反的な対立があるようにみえるが、実は現実的な統一がみられる。これは動的な統一であり、人間の実存の構造契機における風土ミリューの動性なのである。ここで物とは、物に〈なる〉ことである。物はたんなるトポスに凝固することなく、つねにあるおもむきの動きのうちに組み込まれ、いわば「物になること」である(これは生成ゲネシス=誕生としての相対的な存在というプラトン的なイメージに近い)。この風性は、その外ー存ek-sistenceにほかならない。物「としての」存在の展開である。

これがベルク氏の主張する、僕たちの現実全体のあり様である。
つまり

①物の外観の内にあるトポスとそれが保持する物の真の本性(その本質の極限は把握できない)
=大地
=主語論理
=物の土性

②考えれば考えるほどトポスから以前/以後・地理的に離れた場所と人々へと連なっているコーラという関係
=世界
=述語論理
=物の風性
=僕たちの文明

とが、②が①を包む形で統一された関係

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何か書いているけど手は省略した、と見てほしい。

ベルク氏はそのような関係内にある物のあり方を、風性と土性の複合体「風土」と呼ぶ。(理由は前述のとおり
また物が「風土」になる過程のことを「通態」と呼んだ。

p.165 物の存在論を考えると、存在の風土エクメーネ的なありかたは、まさに現実そのものであり、これはほんらいの意味で客観的なものでも、ほんらいの意味で主観的なものでもないことを認めざるをえなくなる。このありかたをわたしは通態性と呼ぶ。鉛筆の存在は通態的であり、風土エクメーネにあるすべての物の存在は通態的である。通態的であるということは、主観的なものと客観的なものが重なっているということであり、必然的なものとして物質的な場を想定しながらも、これを超えているということである。同じように、風土ミリューは物質的であるとともに非物質的であり、主観的であるとともに客観的である。風土エクメーネは、全体的にみるとこのようなものなのである。
p.252 生物圏から風土エクメーネをあらわにする〈通態〉というプロセス

通態はベルク氏独自の造語である。
本書では引用した部分以外でもたびたびこの語の内容が説明されており、それらを総括すると通態とは「物に人間の感覚が通じていると同時にまた人間の行動が物本来のあり方に左右されているという運動の過程、または状態」である。
現実において事物は常に目に見えない風性(関係の網の目)で他のものや人とつながれ、それにくるまれているような状態にある。
ただし、後述するが科学の実験中の対象者や仮説などで扱われる対象物は例外である。
つまりベルク氏は、科学の実験や仮説は別として、実際の現実においては完全に独立した人間の主観など決して成立しえず、完全に客観的な物も成立しえないと確信している。

ベルク氏は「風土」というあり方を言葉だけで説明したが、僕はその説明、特に下の記述から着想して、それを水まんじゅうのようなものとして理解している。

p.332
わたしは人間学的な空間のうちだけに住むことはできない。なぜならば、わたしはつねに〈根〉によって、自然の非人間的な空間に結びついているからだ。…この自然の世界は、たえず人間の世界の下に透けてみえるのだ。(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(1945)p.339)
 これは風土エクメーネ的な関係そのものである。

すなわち、水まんじゅうの餡がトポス(土性)で皮がコーラ(風性)、現実の事物はいつも風性すなわち文明という関係の網の目を通して「自然の非人間的な」科学の世界が見えるような状態なのだと思う。
本書の中でこの引用が、最も明確に風土エクメーネの関係の姿を表していると思った。
しかしなぜ〈肉〉の哲学者メルロ=ポンティがそのようなことを言ったのか?

その前に、前出の問いをかたづけておこう。
コーラ、すなわち物が存在する関係の網の目が風性と呼ばれ、常に物のトポスすなわち土性をくるんでいるとすれば、ベルク氏がなぜコーラ(風性)を風土ミリューと呼ぶのか、そろそろおわかりだろうか。