地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

9 「風土」は地域性という概念の核心を指す

物の風土ミリューはある場にいる人間集団に独特な物の見方である

前の記事で述べたが、ベルク氏によると人間の現実において物とは、下の図のとおりその風性でおおわれており、その中に科学的に明らかにされてきたその土性があり、さらにその奥底に科学をもってしても認識不能な部分が潜んでいる、ということになる。

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人間に認識不能な部分は、トポス(土性)側にあるということしか説明できない。

現実の物とは、ある文明に生きる人間にとっての物事、すなわち物のあり方である。
たとえば豚肉は、ある文化圏の人々にとっては優れた栄養価とその味で重宝される食材であるが、また別の文化圏の人々にとっては汚れを想起させるタブーでもある。
この食や宗教といった文化的トピックをとりあげる際にはその根底にある(人間の価値観をまとわない)物自体(=物の本性、自然)、この場合は生きた豚や豚の枝肉や切り身がもれなくついてくる。
文化について語る際にはその「物自体」を抜きにしてには、たとえば架空の国の史実を語ることのように、現実的な意味をなさない。

だからベルク氏は
物の背景にある関係の網の目
=物のコーラ
=物の風性(と必ずその底に透けてみえる物の土性
風土ミリュー
であるというのだ。
いかなる物も、地域・文化によってあり方が変わる、ただしその本質は文化に左右されない。
それは地域性という言葉の意味そのものだ。

p.24 人間の風土ミリューとは、大地の拡がりに対する人間集団の関係である。

その逆に、文化を通さないつまり意味のついていない純粋な物体というものも、科学の現場などであえて措定しなければ実現しがたい。
物を特定の名で指示するだけの行為でさえ、特定の文化の影響は否めない(たとえば対象物を「A」と指示することはその背景にあるアルファベットを用いる文化が影響している)。

たとえばベルク氏が例にとった「この鉛筆」ならば、書く道具としてまた工業製品として製造され、商品として配送され販売され、誰それの所有物として削られ持ち運ばれ誰かに読まれる物を書く…といった人々の営みの関係の網の目の上に連なりながら、またオーク材や黒鉛といった素材から成る物体として地球上のその地点に3.54立方センチメートルほどの空間を占め、現実的に存在する。

以前に現実に妥当する主語と述語の関係についても述べたが、僕たちが認識する物、現実においてかかわっている物には必ず風性(コーラ)と土性(トポス)という相異なる側面が備わっており、それらはどちらもその物が実現するために欠かせない要件である。
どのような物でも、風性と土性を同時に考慮して扱わない限り、その物の現実味が損なわれる。
たとえば豚肉は、その文化的・栄養的・経済的その他諸々の背景と共にそれを認識せずにただの動物の死骸や肉片の一部分のように扱おうとすることはナンセンスであるし、文化面の理解不足が実際に文化摩擦のような現実的な問題につながることもある。
別の言い方をすると、眼前の物をその姿をした「物」として(トポスのみ)で扱うのは非現実的な態度で、眼前にはないその背景を含め「物事」として扱うことが現実的に妥当する物の見方である。

僕は拙ブログの初めの方で『風土学序説』の概要を紹介した際、もし本書を理解すれば白黒つけがたいような問題を新しい視点から見直すことができるようになる、と述べた。
新しい視点とは、物事を「風土」というトリセツから、つまり風性と土性の統一体としてとらえるような物の見方である。
このことをわかりやすく説明するために僕からもう一つ、鉛筆よりも僕たちにとってより問題をはらんだ例を挙げてみたい。