地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

2 和辻哲郎『風土 人間学的考察』と『風土学序説』

『風土学序説』の要旨は、思想家・和辻哲郎から受け継がれた

p.4 存在の普遍性とその地理的な表現の独自性の〈総合〉を初めて試みた人は、有名な著書『風土 人間学的考察』(昭和十年)を著した和辻哲郎である。わたしは思想的に和辻から強い影響を受けており、本書のタイトルに「風土」という日本語を使ったのは、和辻に敬意を表するためである。『風土』はわたしが昭和四十四年の夏に日本を初めて訪れた際に読んだ最初の書物なのである。さらにわたしは実に合わせて十五年以上もの長いときを日本で暮らしながら、日本の風土を研究することで、この問題を知的な意味だけでなく、むしろ感覚的な意味で発見することができた。
p.218 和辻哲郎(1889-1960)は『風土 人間学的考察』において、初めて人間の風土ミリューと自然の環境をはっきりと区別した。
p.219 和辻の書物を読んでから三十年間というもの、この書物で示された風土の定義の深さと豊かさに、つねに感嘆してきたのである。

僕は本書『風土学序説』を読んでから和辻著『風土 人間学的考察』を読み、本書の理論上のエッセンスの大半は後者で既に表現されているのではないか、本書は後者へのオマージュ作品と言ってよいのではないかとさえ感じた。

ただしベルク氏による和辻著『風土』の解釈には重大な留意事項があり、この記事で後に説明する。

またベルク氏は本書を和辻著『風土』の文章に対応させながら執筆したのではなく、和辻著『風土』の解釈を基に自身の理論を立てている。
そのため拙ブログでも、本書の述べる個々の内容が和辻著『風土』のどの部分を基にして書かれているかには焦点をあてない。

ただし、僕は本書の理論は和辻氏によってその全貌が既に提示されていた、ベルク氏は学者として和辻氏の思想を学説にまで昇華させたのだといってもいいのではないかとは思う。
その昇華の内実は、近代以降の科学と地理学と哲学を初めとする諸学問の成果による、その論理面の補強である。
本書で「風土」の構造を説明する際にアリストテレスの排中律と西田幾多郎の場所の論理を組み合わせたことにも表れているように、ベルク氏は本書で和辻氏を初めとする東洋の思想と西洋思想を統合しようとしたという見方もまた一理あると思う。

和辻哲郎『風土 人間学的考察』

和辻氏の著作は著作権が既に切れており、インターネットサイトの青空文庫でその一部を閲覧することができる。
しかし彼の著作の一つである『風土』は現在まだ閲覧準備中の段階にあり、インターネットを通じて読むことはできない。
青空文庫で閲覧できるようになり次第、こちらにリンクを貼る予定である。

2018年現在、日本でこの本は一般的には比較文化論に類する本として評価されている。
その和辻著『風土』について、ベルク氏は実はその全てを受け継いだのではない。

和辻著『風土』は一部、論理的に無効である

とベルク氏は主張している。

和辻氏は『風土』の冒頭で、1927年夏にベルリンでマルティン・ハイデガー著『有と時間』(1927)を読み、また「風土の印象に心を充たされていたため」(岩波文庫 P.4)、この本の主題である「風土性の問題」が「自分に現れてきた」と述べている。
『有と時間』とは今日『存在と時間』として知られている哲学者ハイデガーの研究前期の代表作である。
和辻氏はその内容を批判する形で自論を展開した。
また和辻氏は『存在と時間』を読んだ前後いずれかの時期にヨーロッパへと旅行し、ヨーロッパへ向かう船の寄港地を含む旅程において自著『風土』の元となった「風土の印象」というネタを得たと考えられる。

『風土』は和辻氏のその読書体験の翌年1928年から発表された文書を集めたもので、ベルク氏は

p.218 この発表の時期は、和辻がハイデガーの『存在と時間』(1927)を読んで、反応した素早さを示すものとして注目に値する。

と述べている。
またベルク氏はこの他に『風土』の内容に触れ、それが

p.329 和辻の現象学的な直感

によると述べている。

以上に示した

  1. 和辻氏の「旅行中に抱いた印象」や「直感」を元に書かれたと考えられること
  2. 論考を練るために十分な時間をかけずに発表されたという事実
  3. 地理学者の観点から読んで得た全体的な感想
から、本書でベルク氏は『風土 人間学的考察』を和辻氏の稀有な直感力を元に一種の思想を示した著作としては高く評価しているものの、必ずしも論理的思考に基づいた学術的な著作だとはみなしていないことが読み取れる。

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和辻「ハイデガーのように環境をとらえたら、自分ならば…」

この本をベルク氏は地理学者の視点から読み、その理論を直に示した「理論的な序の部」(p.220)について本記事の冒頭のように述べて高く評価した。
それはおそらくベルク氏が抱え続けてきた「問い」を解く鍵となり、ベルク氏の研究の核となっていった。

ただし、ベルク氏が評価したのは『風土』の以上の部分に限られる。

p.220 『風土』の残りの部分では、日本、中国、インド、アラビア、地中海、地中海的ヨーロッパおよび西欧の実例に、この方法を適用していく。すると奇妙な混乱が生まれ、逆説的なことに、和辻の試みは無効になってしまう。そして和辻は、この書物の最初の部分で批判していた古典的な環境の決定論へと滑り落ちていくことになる。

このようにベルク氏は本書の理論を展開するにあたり、和辻著『風土』の序言と第一章のみを参照し、その第二章以降はまったく参照しなかった
ただ、実際に第二章以降がどのような内容だったのかを示すために、その一部は本書の中で紹介されている。
それを読むと、それが古今の地理的決定論でよく見られる論調、すなわち(多少しか~まったく)因果関係のないこと同士を思いつきで結びつけて断定しようとするような論調であることがわかる。

和辻氏の錯誤の原因についてもベルク氏は分析している。

p.221 風土的な関係で問題となる〈主体〉についての混乱があるのだ。和辻はさまざまな実例を検討しながら、自分の経験、すなわち日本からヨーロッパを訪れた旅行者の印象やヨーロッパ滞在中の印象と、その地域の住民の経験を区別しなかったようである。要するに、他者の主体性の代わりに自分の主観性を据えただけなのである。そのために『風土』の解釈学はたんなる内省になってしまい、検討しているはずの風土ミリューの風土性は、和辻個人の見解に変わってしまう。

(風土性については後述する。)
日本において和辻著『風土』は広く読まれ、さまざまに評価されている。
しかし上で述べたように

  • 一人の人物の直感に多くを負って書かれていること
  • その著作の9割以上を占める一見比較文化論のような論述は、地理学の専門家からみれば明らかに無効な決定論であること
  • ...の他、ベルク氏は言っていないが、
  • ベルク氏の評価している理論的な序の部が、僕の目からはかなり難解に思われること
といった本自体のもつ弊害を読者が乗り越えて、この本が和辻氏本人の意図したように読まれ評価された機会はほとんどなかったのではないか、と思う。
そのようにできたのは唯一ベルク氏だけだったのではないか。
p.221 たしかに方法論的にはこうした錯誤がみられるが、これとは対照的に、この作品の理論的な部分で提示された原則の有効性は明らかだ。

なお、ベルク氏が有効と述べているこの冒頭部分にはもちろん、その後に続く論理的に誤った部分へ連なるような論述も含まれる。
そういった冒頭部の(あまり長くはない、ほんの一部の)論述はやはり論理的に矛盾しているし、『風土学序説』の内容とも合わないように感じられるが、ベルク氏はそれらを黙殺したのだと僕は考える。

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序言と第一章だけ有効

ベルク氏はこのように言ったが、あなたはどう思うだろうか。
本書が参照した『風土 人間学的考察』の「理論的な序の部」はその序言と第一章、文庫本における23ページ分とそれほど長くない。
興味をもった方はぜひ一度読んでみてほしい。

以上をまとめると、ベルク氏は本書において古今の西洋思想や近代科学の成果と地理学者の専門的手法を用いて和辻著『風土』の理論部の論理的欠陥を補い、これを一つの学説に昇華させた、ということである。

本書の本題の由来が明らかになったところで、その内容を説明したいと思う。