地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

3 人間にだけ「風土」がある理由 -1

環境と「風土」

拙ブログで「風土」について説明する際、最初に述べたことを改めて述べるが、あらゆる生物は環境に囲まれている。
生物の一種である人間にも環境がある。
しかし、人間と環境の間だけには「風土」という関係性がある。
つまり環境における諸物は人間に対してだけ「風土」という形でかかわってくる。
それは「風土」の風性(コーラ)がベルク氏いわく「技術と象徴の体系」、つまり人間の文明全般と同義であるためである。
「風土」は、文明に干渉される以前の物それ自体、つまりベルク氏いわくその土性から、風性が立ち現れることで実現する。
風性、すなわち物がまとう技術や象徴の体系は、物から立ち現れるとも、人間の手や目により物から引き出されるとも受け取れる。

つまりベルク氏は『風土学序説』において、鉛筆のように一見動いていない物においても「その風性が立ち現れる」から「「風土」が実現する」というように、常時なんらかの運動が続いていると主張している。
この運動の原動力はどこにあるのだろう?

人の赤ちゃんを例に

生まれた瞬間の赤ん坊は、胎教の影響をのぞけば、まだいかなる文化にも染まっていない人間である。
赤ちゃんのある鉛筆に対する接し方は、たとえばサルのその鉛筆に対する接し方とほとんど変わらない。
そんな無垢な子にとってその鉛筆が「風土」となるのは、その使い方を理解したり"えんぴつ"という呼称を知る時、もう少し先のことである。

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人の乳児だけが人間として道具や言葉の使い方を習得していく。

僕は鉛筆の例の冒頭にベルク氏は現実の事物は(抽象的にではなく)具体的に扱うべきであると強く主張している、と述べたが、ベルク氏はそのことを子供の成長過程を例に説明した。

p.170 子供は自分自身と自分の世界の物が、分離できない形が統一的なものとなるという生成の現場である。子供(enfant)とは、語りえない(infans)*1状態から始まって、話す能力となにかをする能力が、身体のうちで交わる存在だ。だからただひとつの同一の現実のうちで、語は物の自然のように、子供の肉のうちに凝固する。子供の現実は、子供が自分の世界を展開させていくとともに、子供ととともに大きくなる。これが具体的ということだ。

サルの赤ちゃんと人の赤ちゃんを同じ環境、たとえば人間の家の中で育てると、前者に対して後者の人間的能力(道具や言葉を使う能力)は比べ物にならないほど伸びていく。
サルは、もし人のように育てたとしても、決して人間にはならない。
なぜなら遺伝子によって声を出す声帯や文字を書く手や言葉を理解する脳などが、人のそれらとは異なる形に決められているからだ。
対して人の赤ちゃんにとってまわりの物は「風土」へと変わっていき、その過程で本人の言葉を話したり聞き分けたり道具を使うといった能力が、実際その見聞の届く限りどこまでも遠くへ、本人を包む環境を意味で満たしながら広がっていく。

p.169 風土エクメーネとはたえざる生成ゲネシスである。ここでは物だけでなく、物とともにわたしたちも生成されているのだ。

「風土」の風性(コーラ)は物を人間にとって「何かとして」実現させる背景であり、裏返せば僕たち人間に固有の能力の発現過程でもある。
ベルク氏は話題を赤ちゃんの成長の例からそこに現れる人類の進化の話へと移し、それをヒントに「風土」という生成運動の原動力とその運動の意味するところを追求していく。

*1:infansはフランス語で「話すことができない」という意味である。子供というフランス語enfantの語源となった。本書の脚注209より