地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

4 人間にだけ「風土」がある理由 -2

人類学者の学説を手がかりに

人の胎児から乳幼児へかけての成長過程が人類の進化をなぞっていることは、科学的にも観察されている事実である。
ベルク氏は先の記事で述べた「具体性」を裏付けるために、フランスの人類学者アンドレ・ルロワ=グーラン(1911-1986)の著書『身ぶりと言葉』(1973)からその学説を引く。

p.170 すべての人間は、具体性におけるこの展開をみずから繰り返す。人類は原初の時代にすでにこれを実現している。ルロワ=グーランが『身ぶりと言葉』という書物でみごとに示したように、わたしたちの祖先は、人間という種が霊長類から誕生するプロセスそのものにおいて、技術と象徴を発明したのである。だからこのプロセスは、生物圏から風土エクメーネが誕生するプロセスと同時に発生したのである。すなわち、ここで三つの相互的な生成のプロセスが単一のものとして、切り離しがたいものとして発生したことになる ― ヒト化、、、(動物から人間への身体的な変化)、人工化、、、(技術による物の客観的な変化)、人間化、、、(象徴による物の主観的な変化)という三つのプロセスである。

人類以前の生物がホモ・サピエンスへと進化する過程で、その身体とまわりの物との関係のもち方の相互に起きた数々の変化については、『風土学序説』やルロワ=グーランの本を直接読んでほしい。

ベルク氏は、人類の手の使い方が類人猿の手の使い方と決定的に異なる点と、それが変化していった過程についてルロワ=グーランが述べた文章を引く。
そしてこの人類学者の言葉を借りながら自身が主張する「風土」の内容を説明する。

p.173 ここに「すべての器具を人間の外に押し出そうとするプロセス」(第2巻、47ページ)が始まる。こうして「人間において、生理的な身体に代わる外部の器官」が誕生するのである(第2巻、48ページ)。この代替器官をルロワ=グーランは「社会的な身体」と呼ぶ。これは「身振り」と「言葉」の動的な組み合わせによって生まれたものであり、人間という種の技術的な装置と象徴的な装置が発展して生まれたものである。これは機能を「外部化」するプロセスである。起源においてはこうした機能は、「動物としての身体」に含まれており、この身体がじかに実行していたものである。この社会的な身体は少しずつ多様化しながら、絶えず拡大し続けた。そして動物の身体に対して、ますます自律的な進化が進むのである。

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動物としての身体は人間を含む動物すべてがもつが、社会的な身体=道具は人間に固有である

p.174 ここでルロワ=グーランが「社会的な身体」と呼んでいるものは、わたしが「人間の風土ミリュー」と呼んでいるものにあたる。この社会的な身体を生み出す外部化のプロセスこそが、風土エクメーネの誕生にほかならない。

人間とは道具を使う生きものである、道具は人間が体の機能を延長するためのものだ、と聞いたことがないだろうか。
上の引用は、「風土」がこの広く知られた言説と一致することを説明している。

p.175 わたしたちのいとこにあたる霊長類は、ときによっては物を使うだけの賢さと巧みさをそなえている。霊長類は、その集団に応じて、いわば文化に応じて、さまざまな種類の物の使い方を編み出しているが、物を使った後ではそれを捨ててしまう。だから霊長類にとっては、物は真の意味では道具にはなっていない。そもそも霊長類は道具をほとんど必要としない。彼らのすばらしく適応した身体だけで足りるのである。ところで人間の身体はさまざまな点で無能であり、人間が生成してからの数千年紀というもの、身体だけでは足りなくなっている。そして人間の身体は、日ごとに役立たずになっていく。だからこそ、わたしたちは物を必要とし、わたしたちの一部のますます多くの部分を、物に分かつようになっていく。

これらは目新しい話ではないと思う。
ただしベルク氏はさらに、和辻著『風土』に表された日本的なまなざしをもって、ルロワ=グーランの主張の問題点をも指摘する。