地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

5 人間(主体)と環境・物(客体)という世界観

文明の発生

前の記事で引用した部分でベルク氏は、歴史上の「風土」の発生プロセスは3つのプロセスの同時進行としてとらえられると言った。

p.170 わたしたちの祖先は、人間という種が霊長類から誕生するプロセスそのものにおいて、技術と象徴を発明したのである。だからこのプロセスは、生物圏から風土エクメーネが誕生するプロセスと同時に発生したのである。すなわち、ここで三つの相互的な生成のプロセスが単一のものとして、切り離しがたいものとして発生したことになる―ヒト化、、、(動物から人間への身体的な変化)、人工化、、、(技術による物の客観的な変化)、人間化、、、(象徴による物の主観的な変化)という三つのプロセスである。

そしてベルク氏はこの3つのプロセスのうち後者2つだけ、すなわち文明が加速度的に進化していることに触れる。

p.177 ヒト化が安定しているにもかかわらず、他の二つの変化が抑え難く加速し始めているという事実
p.178 現代の世界ではすべての要素が動物の身体の進化ではなく、社会の身体の進化のうちで働いているようである。

f:id:appalaried:20180306211903j:plain
人間の肉体は、文明のような速度で進化してはいない。

僕たちがそれぞれ父母から受け継いでいる生身の体には、ここ数万年ほどの間を通じてその頭から足まで、根本的な変化は起こっていない(ヒト化)。
対して僕たちの使う技術と象徴の体系(人工化と人間化)はずっと早い速度で変化し、直近のほんの100年かそこらの間にはさらに信じられないような速さで進歩を遂げて地球をくまなく覆い、そのグローバル化を成し遂げてしまった。

物の本質が先か、人間の恣意が先か

ここでベルク氏は指摘する。
上の引用文(後者)のすぐ後に、こう続けたのだ。

p.178 しかしこうした見方は、近代のヨーロッパから発展した現代文明の性格によって歪められているのではないか。

技術の体系(たとえば産業)と象徴の体系(たとえば言語)は2つの別の体系であるが、しかし2つは切っても切れない関係にある。
だから「人間の歴史は、この2つの体系が織りなすものである。」
と言ったらあなたはどう思うだろうか。
それはそうだ、当たり前だと思うだろうか。

ベルク氏は、そのような認識の前提自体に問題があるという。
技術体系と象徴体系を因果関係で結ぶような視点が、本書全体が問おうとしている現実の原理の問い方を歪めていると主張するのだ。
では、まちがった問い方をするとどうなるのか。

p.179 風土エクメーネの展開の他の二つの源泉である人工化と人間化は、つねに変動する関係のうちで、たがいに豊かに深めあいながら進んでいる。技術と象徴のどちらかが優先され、どちらが影響を与え、決定的なものとなるかという問題については、人間科学の分野でまだ果てしない議論が続いている。
  • 人間は物を自分が思うように操作する(→技術の体系)。
  • しかし人間がそれをどのような物として認識するかは、(特定の文化や言語といった形式に表れるような)人間の主観に左右される(→象徴の体系)。

技術体系と象徴体系のどちらが現実に起きる(起きた)歴史においてベースになるのか。
このような問いを立てた多くの人々が、結果的に、決定論に類されるような言説を唱えるに至った。

p.180 近代の西洋文明は、測定できる物理的な存在者(物のトポス)を重視する傾向があり、物が存在するために必要な関係の網の目(物のコーラ)を過小評価するか、まったく無視してしまう傾向がある。これは史的唯物論に顕著にみられる傾向だ。
p.180 過去二世紀半にわたってこの惑星を経済的および軍事的に支配しているアングロ・サクソンの世界では、風土エクメーネにかかわる事実を物質的な実践とその生態学的な条件によって説明しようとする知的な傾向が強いのはこれで説明できるのかもしれない。

ベルク氏が「史的唯物論に顕著にみられる傾向」として評した姿勢は、拙ブログで前に「風土」の具体例として挙げた杉並区役所のチラシにみられた物の見方と似ている。
ベルク氏は、そのような物事の見方はその現実の全体を視野に収められていないため、対象を現実的に有効な方法で検証できないという。

ただしそのようなトポス中心の物の見方に反論しようとする主張のほとんどがまた無効であったとベルク氏はいう。

p.181 その反動として、現代の知的な世界の他の文化圏で発表される多数の論文は、反決定論的な傾向を示している…たとえば…象徴的な装置が重要であることを強調している。
p.181 象徴的なものと現象的なものが復権してくるとともに、20世紀の最後の30年間に、構築主義が台頭してきた。実はこの構築主義とは、すでに批判した唯物論的な傾向をカリカチュアのように裏返したものにすぎない。ここで確認しておきたいのは、風土エクメーネの視点は、その原則から、このような逸脱には反対せざるをえないことである。実際に構築主義は、実証的な還元主義という近代の西洋文明の主要な傾向を裏返したものにすぎない。だから構築主義は還元主義と対決しながらも、逆の形でこれに寄与しているのである。

史的唯物論構築主義、還元主義といった思想の内容については本書の他の部分でも説明されているが、今は詳しく触れない。
興味のある方は本書や他の文献をあたってほしい。
(トポス中心の)近代西洋文明に反対する諸主張を一言でまとめると、物自体のあり方よりも物を扱う人間の思考の方が歴史を左右する、というものだ。

ベルク氏の唱える風土性の視点はそれらを批判する。

p.170 子供の現実は、子供が自分の世界を展開させていくとともに、子供ととともに大きくなる。これが具体的ということだ。

※詳しくは以前の記事を参照

p.179 すでに具体的なものという概念について検討したように(第20節)、風土エクメーネ的な視点の原則からみると、この二つの分野は相互に関連しているだけではなく、つねに相互に貫きあっている。そしてこの二つのどちらかを優先するのは意味のないことだし、因果関係で考えるのはさらに無益なことだ。ある技術の効果を客観的に測定することができるとしても、象徴の効果は、特定の大きさを超えると、主観的に解釈するしかないからである。

問題のありか

問題は、僕たちが問いを立てる前提の中にすでにあるとベルク氏はいう。
技術と象徴が人間のふるまいから発生したことを発見した人類学者の仕事に戻って、そのありかをはっきりさせよう。

p.225 近代の存在論においては、人間と言う主体の存在は、絶対者を写しだした自己意識のうちに、自動的に創設される。環境との関係は、投射(projection)にすぎず、どうしても恣意的なものにならざるをえない。
p.226 ルロワ=グーランにとっては、動物の身体は、技術によっても、象徴によっても外化される。その意味では、社会的な身体のうちに動物身体が〈投射〉されるとは言えるだろう。

ここでベルク氏が「動物の身体」と呼んでいるのは、前述のとおり僕たち人間の生身の体のことである。
体が社会的な身体のうちに〈投射〉される、とは人間(の認識)が周囲の物のなんたるかを決定しているという人の行為のあり様を指す。
つまり、ルロワ=グーランの考え方によると
ある人のある社会的な身体
=ある技術(身ぶり)と象徴(言葉)の動的な組み合わせ
=ある風土ミリュー
本人の属する文明におけるその物事のあり方
が、その本人(の生身の体)にとって何にあたるかは、その人の主観が決定している、ということである。

f:id:appalaried:20180306201431j:plain
これは「箸」「食べ物をつかむ食器」「単位は"膳"」

このような考え方は、近代思想の根底にあるデカルトの思想、人の脳(精神)とそれ以外(人の身体や環境)とを区別する思想にもとづいている。
それに対してベルク氏はいう。

p.180 わたしは技術的な決定論生態学的な決定論に対抗して(風土エクメーネ的な関係の解釈においては、多くの場合このどちらの決定論も同じものになる)、象徴の地位を取り戻したいと考えている。

そしてベルク氏は人間の象徴体系に身体の「外化」でなく、上で挙がった構築主義や還元主義の見方とも異なる役割を見出した。