地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

7 「風土」と人間の肉体

認知科学の発展を助けた現象学

生き物の身体に感覚がそなわっているのは当たり前のことに思える。
しかし、これが言うまでもないほど当たり前であったせいか、前に挙げた西洋近代の諸思想はこの事実をないがしろにして、かつ身体は物体であるというこれまた当たり前の事実の方に気を取られながら、人間や人間社会に関する考察を進めてしまった。
その結果が人の認識が先か、物の本質が先かという決着のつかない論争である。

他の文明の認識はともかくとして、近代西洋思想にこの肉体の特徴を改めて思い出させたのはハイデガーを初めとする現象学を発展させた哲学者たちだった。
モーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961)もその一人で、〈肉〉という語を使いながら人間の知覚のあり方を研究した。
拙ブログでは以前、メルロ=ポンティが「自然の世界」と「人間の世界」という言葉を使って述べた一節を「風土」の構造を図式化するために引用したことがある。
彼の業績は認知科学の発展に寄与し、現実の見方を問う『風土学序説』もまたそれを参照している。

和辻哲郎は実際とても鋭かった。しかし…

生きて感覚をそなえた身体、〈肉〉を論じたメルロ=ポンティのノートからは「私の身体は、世界とおなじ肉でできている」という言葉が見つかっている。

p.328 しかし哲学者として、この世界の肉性を指摘したのはメルロ=ポンティが初めてではない。『知覚の現象学』(1945)以前にすでに『風土』(1935)にこの考え方が示されている。和辻は人間の風土ミリューを、そこに生きる人間の〈肉〉に譬えたのだった。
ここで我々は人間の個人的・社会的な二重性格を最も根本的な問題とする立場にたって、同様な問題を追跡してみる。肉体の主体性は、人間存在の空間的・時間的構造を地盤として成り立つのである。したがって主体的な肉体なるものは、孤立せる肉体ではない。孤立しつつ合一し、合一において孤立するというごとき動的な構造を持つのが主体的肉体である。しかるにこうした動的な構造において種々の連帯性が開展せられる時、それは歴史的・風土的なものになる。風土もまた人間の肉体であったのである。しかるにそれは、個人の肉体が単なる「物体」と見られたように、単なる自然環境として客観的にのみ見られるに至った。そこで肉体の主体性が恢復せられるべきであると同じ意味で風土の主体性が恢復せられなくてはならぬのである。
和辻哲郎『風土 人間学的考察』21-22ページより)

この和辻氏の主張は、次のような西洋思想批判に先導されていた。

アントロポロギーは個人的・社会的なる人間の二重性格から個人的性格のみを抽出して問題とする学問であった。そこでこの学問は、間柄から遊離せしめられた「人」を身心の二重性格において把捉しようと努力した。しかし身心の差別を明らかに把捉しようとする努力は、ついにこの差別における統一を見失わしめるに至った。その最も大いなる理由は身体をその具体的な主体性から引き離して「物体」と同視するに至ったところに存する。かくしてアントロポロギーは精神論と身体論とに分裂し、前者は心理学から哲学的認識論の方へ、後者は動物学の一分科たる「人類学」の方へ、あるいは生理学や解剖学の方へ、発展して行った。しかるに現代の哲学的アントロポロギーは、この分裂を克服して再び身心の二重性格における「人」を把捉しようと企てる。そこで問題の中心に来るのは、肉体が単なる「物体」ではないという洞察である。すなわち肉体の主体性である。しかしそれがアントロポロギーの伝統を守る限り、あくまでも「人」の学であって「人間」の学とはならない。 (同書p.21より)

アントロポロギーとはドイツ語で人類学を意味するが、和辻氏は西洋の主客を分離しようとする二元論にもとづいた近代思想全般を批判したのだと思う。

また、和辻氏は『風土』の冒頭で繰り返し、自分の読んだハイデガー存在と時間』に出てくる実存という概念に依拠して
「我々はハイデガーが言うとおり外に出ている」
「風土(ある地方の特性)は外に出た我々(を我々が認識したもの)だ」
「風土は挨拶などを介して我々の間で共有される」
などと主張する。

p.222 和辻は、「外に出る」という原則を使っているが、これはハイデガーから直接借りてきたものだ。和辻が依拠しているのは、ハイデガーの「脱自存在(Ausser-sich-sein)」という概念だが、すでに指摘したように、これは実存(existere)の文字通りの語源的な意味である「外に(ex)」「立つ(sistere)」ということだ。この概念は、現存在の存在は、その身体を包むものとの自己同一性に限定されないことを意味している。現存在は自己の外に、みずから配慮する物のもとにいる。

和辻氏は確かに上述のメルロ=ポンティに先立って、彼と同じことを明言していた。
体は単なる物体ではなく生きている、風土の様々な形象は外に出た僕たち自身(を僕たちが認知したもの)だ、だから風土も人間の肉体なのだ、と。

しかし、和辻氏がその考えを著した著作には問題があった。
和辻氏は人間と他の生き物をどちらも主体性をもつという点で区別せずに主張を述べたし(最初に選んだ例は「寒さの知覚」だった)、相前後して矛盾するような主張も行った。
彼が語るその直感を十分に理解できた人は少なかった。

ベルク氏の仕事

ベルク氏は自分の研究の道筋について下のように語る。
(先に『風土学序説』より引用した和辻著『風土』の引用「肉体の主体性が恢復せられるべきであると同じ意味で風土の主体性が恢復せられなくてはならぬのである。」に続いて)

p.329 しかし和辻は最初の目標を推進せず、第二の目標に固執した。和辻は身体性の思想家ではなく、風土性の思想家だったのである。そして身体性の思想家だったのが、メルロ=ポンティである。この問題に十年前から直面しているわたしは、なぜかはわからないが、身体性の問題が風土エクメーネの力学で中心的な役割を占めると感じていたが、北海道の美しい秋に触発されながら、『知覚の現象学』を遅ればせながら読んだことで、なにかひらめくものがあった。それまでルロワ=グーランは別として、和辻の現象学的な直感と、ハイデガーの晦冥な表現を除くと把握できなかったことが、臨床的な神経・精神医学(最近のこの学問の呼び名である)の巨大な参照装置を使って確認されていることを、この書物によって発見したのである。

「なぜかはわからないが」って『風土 人間学的考察』を十年も読み返していたのならそこに出てくる「肉体」が気になってたからでないの?
まあ、たしかに和辻著『風土』の冒頭部では肉体や感覚の他にもそれに関連するいろいろな事象が取り上げられているので(はっきり言って文章にとりとめがなく)、肉体ばかりに注目する理由はないかもしれない。
それはさておき、メルロ=ポンティの身体のあり様に対する洞察もまた鋭かったが、彼は和辻氏とは逆に人間の身体のありかを見定めることができなかったとベルク氏はいう。

p.331 和辻を知らず、ハイデガーの「自己の外に出る存在」の概念を参照していないメルロ=ポンティは、身体性のコーラを構想することができなかった。ただ次のように語るだけである。
自己の身体の謎めいた性格…自己の身体は、それがあるところにはあらず、それがあるところのものでもない。(『知覚の現象学』(フランス語版)230ページ)

しかしメルロ=ポンティ世界の事物が「風土」という構造をしており、そしてそれは人間自身の体にもいえるということにおそらく気がついていた。

p.332
わたしは人間学的な空間のうちだけに住むことはできない。なぜならば、わたしはつねに〈根〉によって、自然の非人間的な空間に結びついているからだ。…この自然の世界は、たえず人間の世界の下に透けてみえるのだ。(『知覚の現象学』(フランス語版)339ページ)
これは風土エクメーネ的な関係そのものである。

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人間の世界(風性)を通して自然の世界(土性)がみえる

いったい人間の現実は本来どのようなあり方をしているのか。
西暦20世紀末、この問いへの答えを出すための材料は各方面の専門家たちから出そろっていた。
彼らの仕事は諸学問の総括によりこの世界の叙述を旨とする地理学者の1人に探し出され、一つにまとめられた。