地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

8 地理学者による人間性についての仮説 その1

地理学者による人間の定義(特徴1)

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ベルク氏は各方面の専門家の研究成果を総合して、ある仮説を立てた。
その仮説とは

人間とは、人間として覚醒しているときは常に、自分の認識する事物(環境)すべてを、あたかも自分と他人で共有している体であるかのように感じ、そのように扱おうとする生き物だ。

言葉を換えてみよう。
人類は数万年前にホモ・サピエンスという現生人類となった頃以来、その発達した脳や手を使いながら自分をとりまく環境をあるがままに受け入れるのをやめ、それらを自分たち集団(たとえば家族、集落など)のために使い、名づけ、価値づけるようになった。
つまり、あたかも自分たちの体の延長であるかのように、体の一部としてみなすようになった。
さらに言い換えれば、自分の本来の体を、自分をとりまく環境と地続きに並べて認識しているということでもある。
このように僕たちが自分の体の一部として認め扱っている諸事物は、前述した「風土」という状態にある。
自分の体も「風土」状態である。
常に人間のまなざしによってある価値を付加されている「風土」はみな、自然科学がいうところの環境や物質であるとはいえない。
「風土」はありのままの環境を下地としながら、同時に僕たちの体としての特質をそなえている。
なぜなら僕たちは常に環境に向かって「風土」として拡がり、また環境を「風土」として自分自身に取り込もうとしているからだ。

もちろんその思い込みに働いているのは僕たちの脳機能、ただし大半が無意識の機能だ。

p.368 思考はその一部しか意識にのぼらせない。そして残りの無意識の部分も、思考の一部を構成しているのである。

僕は僕なのに、他人といっしょに環境を「感じ」ながら考える

人間の集団がある文化のもとに物を使ったり名づけたりすることはあなたにも理解できると思うが、それがどのように事物と自分の体とを同一視することにつながるのか。

ベルク氏は、人間の象徴体系(言語の使用を初め、なにか物自体でないものに特定の物を示させようとする行為すべて)のもつ主な機能は、個人の認識を身体を超えて運び、再現することだと考えた。
象徴というとぼんやりしてイメージしづらいので、その形の一つである言語、たとえば日本語で代表させよう。
たとえば日本語は、僕が環境において認識したことを意味が通るよう整理し、組み立てる。
そして保存し、よそへ運びもする。
どこへ運ぶ?
同じ日本語を解する他人、たとえばあなたへと運ぶのである。
運んでどうする?
ベルク氏はこう述べていた。

p.226 象徴的な機能は、この関係では身体のうちにおいて、物理的に遠く離れた物を再現できるということだ。これは投射(projection)ではなく、逆に内射=取り入れ(introjection)なのである。

僕の発した言葉は僕がある物において感じたことや知ったこと、つまり認識を保存してあなたに伝え、その認識をあなたにおいて再現する。
そこであなたはその物を、(あなたなりに)僕と同じ(ような)仕方で認識する。
上の文でかっこをつけたのは、言葉が伝えられる人の認識には限界があり、たとえば細かいニュアンスが取りこぼされたり、伝達の過程で元の意味がまったく取り違えられることさえ起こるからだ。

僕たちはベルク氏が言うとおり象徴を使って世界を体内にとり入れるが、体内から自分の世界観をとり出すためにも象徴を使っている。
自分の思考をただ組み立てるためにも、言葉とその言葉の元になった歴史と物事は不可欠だ。
こうしてすべての生物がすべからく個体ごとに感じ得ていたものが、媒介となる事物とその名を通じて個体の間を出入りし、複数の個体の間で(同じ技術と象徴の体系に属する生物の間に限られるが)共有されるようになる。

下の引用文は、上で引いた無意識の思考に関する引用(p.368)と合せて、いま述べたことを表現している。

p.334 現実には、認知科学が明快に示したように、わたしたちは身体をもって考えるのではない。わたしたちの身体こそが考える、、、、、、、、、、、、、、のである。そして身体は孤立して思考するのではなく、かならず物理的および社会的な環境とともに思考する。

この、象徴(たとえば言語等)の感覚を共有させる機能に注目すると、記事冒頭に述べた「人間とは、人間として覚醒しているときは常に、自分の認識する事物(環境)すべてを、あたかも自分の体であるかのように感じ、そのように扱おうとする生き物だ。」という文言において
「人間として覚醒しているとき」とは、象徴(たとえば言語)をもって何かしら考えているとき
「自分の認識する事物」とは、象徴(たとえば言葉)で認識できるもの、すなわち名を知ってるもの、名で呼べるものすべて
と、ざっくりと言い換えることができる(細かくいうとどういうことなのかはもっと後で説明する)。
つまり、僕たちは自分が名前で呼べる事物は全部、たとえば鉛筆も火星も火星探査機も生ゴミもパズルも金魚もスキー場も、無意識に自分の体も同然のものだとみなしている

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全部自分の体の延長上にあるつもりになっている
これはもちろん人間一人ひとりの主観上の事柄であり客観性を持たない事柄であるが、誰しも人間である以上はたとえどんなに客観的な話をしている時でも、完全には逃れようのない事実である。
そのように認識される事物は、同じ言葉や技術を使う複数の人間たちにとってその言葉や技術の上で同じように感じ取られ、常に複数の人間の感覚を媒介してつなぐ働きを果たしている。

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「おはしで食べてね」「おはしで遊んじゃだめ」「おはし?」「たたいたりなげたりしたらいけない(おこられる)」

僕たちの認識する環境は、諸々の物と、僕たちの文明化されたまなざし、つまり「風土」(化された物)の風性(コーラ)、関係の網の目に満たされている。
この関係の網の目には言葉(や記号などその他諸々の象徴)という、体における神経のようなものが通っている。
そのような関係の網の目とそれで結ばれた諸事物の総体は、ある共同体の体、その〈肉〉であるといえる。
共同体という語が示すとおりである。
ここで共同体というのは、家族のような小さな単位から町会、学校、企業、さらに自治体、国、人類のような大きな単位まで様々ありうる。
「一つの共同体」と呼ばれるべきか否かは、特定の価値観、ある種の文化を共有している集団であるかどうかで判断できる。

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小さな共同体から日本まで、「風土」の風性のように入れ子状になっている絵を描きたかったのだけど、うまく描けなかった

人は自分の体の限界を超えるべくまわりの事物を使う技術を発達させると同時に、会話や文字など(象徴)を使ってそれらの事物における経験を仲間たちと共有する。
また仲間と同じ象徴を使って、自分独自の思考を組み立てようとする。
その過程で人は人間となり、一個の生物である個人であり続けながらまた世間や民族や社会といった人間関係において生きるように、いわば言葉などで説明できない生まれながらの自分自身でありながらまわりの人間仲間の一員でもあるという二重生活を送るようになる。

以上、ベルク氏の立てた仮説(その1)について、僕なりに説明してみた。
ではベルク氏本人の主張を確認しておこう。