地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

9 風土性とは人間特有の世界観である

風土性メディアンスとはなにか

前の記事では、僕が『風土学序説』から読み取ったベルク氏による人間固有の性質(仮説)の解釈を述べた。
ベルク氏はこの人間固有の性質を風土性、フランス語でmedianceと名づけた
先に本書に沿って説明してもよかったのだが、風土性という語が人間にとっての物のあり方である前述「風土」と似ていて紛らわしいと思い、先に自分なりに説明をしてみた。

本書には、前に説明した「風土」(風土エクメーネまたは風土ミリュー)という概念が出てくる。
風土性medianceは、その「風土」を直接指すものではない。
「風土」の性質を指すのは通態という言葉(ベルク氏の造語)の方である。
風土性は、環境を「風土」状態にしてしまう(環境と「風土」という関係を結ぼうとする)ような人間の性質を指す概念である。

もともとこの風土性という言葉は和辻著『風土』の冒頭で使われた語であり、和辻氏が考え出した概念であった。

この書のめざすところは人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすることである。
和辻哲郎『風土 人間学的考察』p.3)

ベルク氏はこの概念を検証し、そこに人間のなんたるかを示す重要なヒントを見た。
しかし最終的には自分で概念を組み立て直すことにした。

p.222 たんなるイメージよりも強固な土台の上で、現代的な風土性の理論を新たに確立することが必要なのだ。この土台はルロワ=グーランの人類学によって与えられた。

ベルク氏は風土性という語を和辻氏から引き継ぐことにしたが、フランス語ではこれをmedianceと呼ぶことに決めた。
このベルク氏発案の風土性メディアンスについて、本書で述べられたことは以下のとおりだ。

p.223 風土エクメーネは通態のプロセスにおいて生まれるものであり、このプロセスにより、人間のものとなった身体の機能が、環境のうちに外化されるのである。わたしたちの風物身体はこのようにして構成される。ここで生まれる構造は、人間の存在をいわば二つの半球に分ける―わたしたちの動物身体と風物身体である。このように人間の身体が二つに分かれ、わたしたちの動物身体の中心の存在が、わたしたちの世界の地平の涯まで延長されるということが、人間の実存の構造契機なのである。それが風土性ということだ。

「通態のプロセス」とは、僕たちの視点によって環境(物)が「風土」になる際に、僕たちと環境の間で実際に起きていることだ。
このプロセスは人間全員にとって、各自が赤ん坊から人間として成長を始める時に始まり、死ぬまで続く。
これは以前にも述べたが、通態とは「物に人間の感覚が通じていると同時にまた人間の感覚が物本来のあり方に左右されている運動の過程(状態ともいえる)」である。
つまりベルク氏は、科学の実験や仮説は別として、実際の現実において完全に独立した人間の主観など決して成立しえず、完全に客観的な物も成立しえないと確信している。
「風土」はこの(人間の主体性により価値づけられているゆえに)完全に客観的ではない事物である。
そして人間は(自分がまわりの人と一緒に主体的に定めた)まわりの物のあり方によって逆にその暮らし方を左右され、自分本来の体一つではなく「風土」にも頼って、いや「風土」を自身の内に取り込んで暮らしている。
つまり「風土」となった物は、僕たちにとってまるで体の一部と同じ価値を持ち、同じように機能する。

僕たちはそれぞれ2つの体に生きている

自分本来の体、僕たちが通常「人間の体」だと考えている体、あなたのその体のことをベルク氏は「動物身体」と呼ぶ。
そしてベルク氏は「人間の身体が二つに分かれ」ており、人間各々にとってその全身は本来の体(動物身体)と「風土」という身体すなわち「風物身体」の両方で成り立っていると主張する。

人間の半身である風物身体は、以前に紹介したルロワ=グーランの学説をベルク氏が補強して表したものを指す。

p.173 「すべての器具を人間の外に押し出そうとするプロセス」(第二巻、47ページ)が始まる。こうして「人間において、生理的な身体に代わる外部の器官」が誕生するのである(第二巻、48ページ)。この代替器官をルロワ=グーランは「社会的な身体」と呼ぶ。これは「身振り」と「言葉」の動的な組み合わせによって生まれたものであり、人間という種の技術的な装置と象徴的な装置が発展して生まれたものである。これは機能を「外部化」するプロセスである。起源においてはこうした機能は、「動物としての身体」に含まれており、この身体がじかに実行していたものである。この社会的な身体は少しずつ多様化しながら、絶えず拡大し続けた。そして動物の身体に対して、ますます自律的な進化が進むのである。
p.174 ここでルロワ=グーランが「社会的な身体」と呼んでいるものは、わたしが「人間の風土ミリュー」と呼んでいるものにあたる。この社会的な身体を生み出す外部化のプロセスこそが、風土エクメーネの誕生にほかならない。しかし人間の風土ミリューには、ルロワ=グーランのいう社会的な身体に属する技術的な次元と象徴的な次元という二つの次元のほかにも、生態学的な次元がつねに存在していることを確認しておこう。風土エクメーネの観点から、わたしはこの次元を〈風物身体〉(corps medial)と呼びたい〔本書では、人間の動物としての身体(corps animal)と対比して風土としての身体(corps medial)を風物身体と訳す〕。これは技術的および象徴的なもの、すなわち社会的なものと、生態学的なものを結びつけた人間の身体である。

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この図はすべて、この人にとっては自分の体にあたる

前出の「風土」という概念を使えば、ルロワ=グーランが指摘した技術的および象徴的なもの、すなわち社会的な身体は現実の物の風性(コーラ)、文明的な次元である。
ベルク氏はそれに「生態学的な次元」すなわち自然科学の対照となる側面(もちろんその下位にある物理的な次元をも含む)=現実の物の土性(トポス)を加えて、

この2つ(風性と土性)が重なっている世界
=人間がある共同体の一員としてその技術体系と象徴体系を通じて認識している物すべて
=人間にとって現実的な世界のあり様
=「風土」状態の世界
=人間の風物身体
=人間にとって自分の心身と共に欠かせないその半身にあたる

と主張しているのだ。

人間が認識する自分の体も常にその土性(生態学的な次元)と風性(文化的な次元)が組み合わさった「風土」状態である。
「風土」状態の物は独立した「風土」という対象だったのではなく、それを認識する人間の体と同じ風性(関係の網の目)で連なって「風土」状に見えていたのである。

p.175 数千世紀を経た長い誕生の期間を通じて、風土エクメーネは人間の身体そのものから出てきた。これは人間の、、、風土ミリューの中の物に、、、、、人間の身体性が通じるようになった、、、、、、、、、、、、、、、、ということである。こうした物質的な物と非物質的なものも、わたしたちが人間として存在し、生きるために必要である―わたしたちの身体そのものと同じように。

身体そのもの、つまり生きて感覚をそなえた体も同然だということを強調するために、ベルク氏は本書でこれをしばしばメルロ=ポンティの仕事に由来する〈肉〉という語を用いて表した