地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

11 風土性は人間性の原点である -2

人間は自分の感覚と他人の感覚(とその他の何か)の接点を探そうとする生き物である

前の記事で述べたことをまとめると、どうやら人間は自分の感受性を自身の体外まで、「わたしたちが足を踏みいれることもないような場所での事件」についてまで何かを感じられるほどに発達させた生き物であるようだ。
人間全員に風土性が備わっているのは、人間が本能的に自分の個人的な感覚と他人と共有する感覚を合わせもとうとするためである。
生き物にとって感じ覚えるとは、ある時は意識的でありまたある時は無意識に起こる。
そのような感覚が起こる場とは、体である。
ベルク氏が編み出した「風物身体」という概念の表すことは、おそらくあなたが受ける印象ほど比喩的な意味合いには、ない。
あなたにとって風物身体は、おそらくルロワ=グーランが「社会的な身体」と表現したものくらい、もののたとえの範疇におさまっているのではないか。
そういった今日の日本人の常識に抗するかのようにベルク氏は、僕たちはほとんど無意識にしかしはっきりと「この世界」とその一部である事物はどれも自分の(そして仲間の)一部だ、自分の体だと感じているはずだ、ただ無意識に自分が世界(事物)と一体化しようとしていることに気づいていないのだ、と主張している。
ちなみに、ベルク氏が動物身体と風物身体の結合体と表現した人間の自己イメージは、日本人が古来「身」と一語で呼んできたものにあたると思われる。
本書は、「身」のような日本人に独特の世界観の内実とそれがもつ意義を、科学を含む諸学問の視点から明かす試みともいえる。

p.334 現実には、認知科学が明快に示したように、わたしたちは身体をもって考えるのではない。わたしたちの身体こそが考える、、、、、、、、、、、、、、のである。そして身体は孤立して思考するのではなく、かならず物理的および社会的な環境とともに思考する。
p.334 この視点を切り拓いたのはメルロ=ポンティである。そして思考するためには頭が必要だという平板な自明性から遠く離れた場所まで運んだ。実際、問題となるのは脳の生理学的なメカニズムだけではない。脳のメカニズムだけを問題にする視点は、近代のパラダイムのうちにとどまっている。問題なのは、思考の性格そのものであり、そのすべての様態である。だから風土性の視点からは、動物身体と風物身体の接合の構造契機が問題となる。要するに、思考は身体性をあらわにするということだ。

脳は、体のような感覚する器を得なくても機能するのかもしれない。
しかし、無機物のような(感覚をそなえない)器において機能する脳には、脳を持ちかつ感覚する体にしかできないことを、おそらく成し得ない。
生き物の体は、その生き物の脳から制御される対象物のようなものではない。
生物にとって自分の身体とは、そして人間だけが自分の外側にもつ風物身体とは、僕らにとって実際にはどんなものであるのか。
身体(身)こそが考えるとは、どういうことか。
拙ブログは本書の視点から少しずつその内実を明かしていきたいと思っている。

型自体を変形させうる中身

そして、人の風土性は前の記事で述べたとおり本人の人間性の原点であるが、同時に、1人でほっとけば個人である人を社会的にさせる原動力であるため、その内容は人が属する場(共同体)のあり方、つまりその環境とそこに住む人々の関わり方であるともいえる。
そのあり方、関わり方は、共同体ごとに独特なものである。

p.220 風と土という漢字二文字で作られた風土という概念は、ある地方の特性の全体を示す言葉である。しかもこうした特性を、起伏、気候、水文地質学などのような物理的な視点からみるだけでなく、その地方のならわしや風習を含めた社会的な視点からもみるのである。こうして風土性という概念は、これらの特性の全体を示すものとなる。これはその地方に特異な個性といえるだろう。
たとえば人が思考するために用いる言語の形式は地域ごとに独特であり、その形式はそれを用いる人間の思考の内容に深く影響を及ぼしているだろう。
つまり、ある人の風土性は本人が無意識のうちにはめられた型のようなものでもある。
その型、すなわち共同体の性質は、物のある場を表す風性と同様に入れ子状に重なっている(例:…日本>関東>東京>杉並区>○○町>△△家>僕)。
上の例は住居を軸にした共同体の入れ子構造だが、1人の人が属する入れ子のグループは何種類もあるだろう。

p.224 mediance(風土性)という語は、ラテン語のmedietasを直接の語源とするが、このmedietasという語は、半ば、中ほど、中間的な性質を意味する。わたしが風土性を示すために特別な語を造語しようとした際に、まずmilieuという語を検討した。環境environmementとの対比で、風土をmilieuという語に訳すことに決めていたからである。この視点からみると、medianceは特定の風土の特異な性質という意味になる。これは社会と環境との関係であり、問題となる社会と環境の関係が非対称的なものであるという事実によるものである。すでに述べたように、わたしたちの存在は二つの半球に分かれているが、この半球は同じような性質のものではないからである。片方の半球である風物身体は、技術と象徴によって環境のうちに組み込まれている。もうひとつの半球は、動物身体である。しかしこの二つの異質は半球は、異質であるにもかかわらず統一されている。両方とも同じ存在に属しているのである。そのためにこの存在論的な構造は、この二つの半球に基づいて、動的な同一性を作り出す。内的な半球と外的な半球、すなわち、個人の生理学的な半球と(わたしたちの動物身体というトポス)、風土のうちに拡散している半球(わたしたちの風物身体というコーラ)である。こうしてみると、風土性についての和辻の定義は十分に意味をもってくる。人間だけが動物身体と風物身体の間に二分されているのであり、風土性はそこから生まれた構造契機なのである。

そしてまた人がその風土の一員として自身のはまっている風土性のあり方を変えることも、たとえば母語において新語を生みだすことのように、世の常である。
人は風土性にはまっているけど、その風土性に自ら働きかけて変えることもする。
そのことをベルク氏は本書で繰り返し「刻印でありまた母型でもある」と表現している。

p.358 風土エクメーネは人間の行動の刻印としても、母型としても機能する。歴史が「身体化され、自然となる」のは、わたしたちの風物身体においてであるとともに、動物身体においてでもある。
p.362 通態性では動物身体は技術によって風物身体のうちに外面化され、象徴によってふたたび内面化される。このように熟慮は本質的に人間的なものであり、同時に風土エクメーネ的なものである。
p.362 これは、わたしたちは手と表象によって、わたしたちの環境を人工的なものにしていることを意味するだけではない。環境がわたしたちを人工的なものにするということでもある。ドラッグを使うと、習慣によってわたしたちはドラッグに依存してしまうように、わたしたちはもはや、みずから人工的なものにならずに生きていくことができなくなっている。

以上をまとめると、あなたの属する場の性質(たとえば国民性、県民性、家族の性向など)があなたが発揮する人間性の原点であり、そのせいであなたは自分の本体と自分の「風土」の両方を自分自身となして考えたり行動したり、つまり生きているということだ。

さて、あなたはどう思うだろう?