地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

13 「近代思想は是ではない」のなら、何が是なのか

「実存する」が意味すること

前記事の最後の引用に出てきた、またこれまでも何度か出てきたが、人間が「実存する」(原語に依拠して訳すと、「外に立つ」)とは実際どういう意味なのだろう。
本書に従って簡単にまとめると、人間は自分の体を拠点に直接/間接に認識する環境を物理的にも精神的にも人間化し、環境のあり様を我が身のことと成すことで自分の人間性を発揮する。
この活動が実存である。
だから、触れたことも見たこともない物や会ったこともない人のことを(もちろん言葉や記号を介して)知り、それ(その人)のことを自分との関係において気にするだけで、その人は実存しようとし始める。
ただしそれは実存できるようになるためのきっかけにすぎず、実存の完全実現にはさらに別の条件をクリアする必要がある。
別の条件とは、風土性というその原点から出発して人間が本来生まれ持った方向性に沿った人間性の発揮である。
以前の記事で説明した人間性における風土性(その1)は、その(人間性の)原点の出発点と過程にすぎず、人間性の全体ではない。

人間の実存という様態の全容を理解することは、人間性とは本来どういうものかを理解することにつながる。
しかしそれを理解するためには、後で説明するベルク氏の風土性に関する仮説(その2)をも知り、風土性をその方向性において、具体的にどちらへ向かっている原点なのかを理解する必要がある。

僕は拙ブログで風土学の理論を紹介したい

以前にも述べたが、僕は『風土学序説』の自分なりの解釈をもって本書を紹介したいと思っている。
これから僕はベルク氏の主張を紹介すると共に、その主張を実例をもって証明するためにベルク氏の言葉を借り、まるで自分の意見を主張するかのように説明していく。
しかし上で述べたとおり、決して僕が「自分の言っていることは本書によると正しい」と示したくてそうするのではなく、「本書の学説が現実的に理にかなっている」ことを示すために卑近な例をとったら僕に身近な話ばかりになった、ということなのでそう理解していただきたい。

また、僕が紹介したいのは本書全体だが、僕がその内で肯定し読者の理解をも得たいと考えているのは「風土学の理論」に限られることをここに明記しておく。
本書を気をつけて読むと、風土学の理論にあたる部分と、著者ベルク氏の意見にあたる部分が見分けられる。
たとえば前者において「限りない多様性」を認めながら、ベルク氏は別の文脈でその種の事案について「例外」を認めていることがある。
その例外は理論に含まれない、ベルク氏個人の意見だと思うので、僕はそれを肯定も否定もしないし、必要があれば拙ブログでもそう書く。
たとえ普遍的な理論を論じた学術書でも著者の個人的な意見が混ざることは避けられないことであり、その事実のせいで本書の学術書としての価値が下がるとは考えていない。
ただ両者を区別すれば事足りると考えている。
拙ブログで僕のその区別に問題があると思われた方は、ご指摘いただけると助かる。

風土学の理論は、近代的視点の論理的に誤っている部分を指摘して否定し、それに代わる論理を提示するものである。
本書でその理念の核心部が表されている部分を下に引用する。

p.325 ここでの課題は、ペンシエロ・デーボレ*1という偽りの逃げ道に逃げ込まずに、近代の選択、すなわち主体と客体の二元論を克服することにある。一見したところペンシエロ・デボーレという方法は、その意味するところを考えてみると好ましい方法にみえてくる。同一のイデオロギーに依拠して、ひとつの場ですべてを説明できるという思い上がりを捨てようということだからだ。この思想は、弱い(debole)というよりも虚弱なものであり、現実には科学主義とその相棒である市場(とその自由主義)に降伏してしまうことを意味する。浮遊する記号の吃水線の下にあるものを把握することを放棄してしまうと、大海を制御すること、すなわち事物の現実を制御することを、物理学に委ねることになってしまう。一方では物理学はといえば、力の統一理論を作り上げるプロジェクトを放棄したことはなく、沈黙のうちにこのプロジェクトと、その出資家たちに従属するようになるのである。
p.353 歴史学は、地理学的な考察を放棄し、基而上主義の「ポリティカリー・コレクト」の声に魅惑されてしまっている。風土性の視点からみると基而上主義とは、風土エクメーネだけでなく、歴史そのものを考えるのを禁じることだ。
p.375 近代の二元論とは逆に、風土性の観点からの理想的な方法は、わたしたちの生を抽象するのではなく、わたしたちの生から出発して厳密に考える、、、、、、、、、、、、、、、、、、、ということだ。

本書は、西洋近代思想とそれを背景に台頭した資本主義経済を批判し、さらにそれらに対抗する体制を支え得る新たな世界観を提示することを目指している。
ポリティカリー・コレクトのようなただ政治的摩擦を避けすべてを容認しようとする姿勢でもなく、個人が個人的な範疇内で表明する姿勢でもなく、科学的研究の成果(客観的事実)に裏づけられた個人的かつ社会的に通用する具体的な姿勢の提言である。
そして、実存はその姿勢に深く関係している。

引用内の「わたしたちの生」とは、ベルク氏の生き方を含む古今東西すべての人の生き方を指す。
しかしベルク氏は本書で、「どのように自分の生き方から出発して厳密に考えるか」という方法を哲学者や思想家(和辻哲郎プラトンアリストテレスデリダアウグスティヌスハイデガー西田幾多郎メルロ=ポンティ 他)と人類学者(ルロワ=グーラン)と認知科学者多数の研究実績から推論しようとした。
その考え方は、断じて著者ベルク氏の人生観から推論されたのではない。
地理学はもともと哲学・思想や人類学を参照する学問ではないが、ベルク氏は自分の研究の必要上、思想家や人類学者の研究成果をも一人の学者のまなざしで読み、評価しようとしている。
本書で風土学の理論を示す部分は、その他の部分すなわち著者の意見を示す部分とは異なり、著者以外の学者の実績すなわち論文や学説を参照し、著者の地理学者としての学識においてそれらを評価・総合するという学術的な手順を踏んで述べられる。
だから本書を批評する方は、その結論の内容を見るより前に、その学術的な検証の手順や内容を評価してほしい。
もちろんそれは学問の専門家でなければ難しいことなので、そういった方にも本書に興味をもって読んでもらい、より的確に解説できるならぜひそうしてほしい。
また特に専門知識をもたない方にも本書の主張をわずかでも知ってもらえればと願いながら、すべての日本人へ向けて拙ブログを書く所存である。

*1:※イタリアの哲学者ジャンニ・ヴァッティモの表現で、「弱い思想」を意味する。リオタールの用語では「大いなる物語の終焉」にほぼ相当する。脚注422より