地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

1 物と自分の関係

物は人間の体の一部も同然だから…何なのさ?

僕たちは僕たちの環境や物(じつは客観的な対象ではなく自分と連なった「風土」)をどのように扱うべきか、ということについて、僕が本書の観点から言いたいことはたくさんある。
しかし『風土学序説』でももちろんベルク氏が専門的に研究している都市や建築について、この視点からそれらをどう扱うべきかが論じられているので、興味のある方はぜひそちらを読んでほしい。
拙ブログの目的は本書を紹介することなので僕がよけいに例を挙げる必要はないのだが、この仮説が僕たちに示唆しているより今日的な事例を一つ挙げて説明をさせてもらいたい。

自分の体とまわりの物には同じように感覚が通じてる、ってほんとに感じられますか?

ベルク氏の仮説「あなたの環境は実は「風土」という状態で、あなたにとってはあなたの一部、体も同然である」は、僕たちと物の関わり方、僕たちが物を見る視点をゆるがすような主張である。
なぜなら、僕たちにとって環境とは自分をとりまく自分以外のものだ、ということは常識中の常識だからだ。
自分と環境が物理的に離れておりそれぞれ自由に運動していることは、なによりも見た目に明らかである。
この常識が実は普遍的な真実というよりは近代思想という一思想の産物、つまり地域と時代のかけ合せが産む数々の物の見方の一種類にすぎない、とベルク氏は主張する。

p.124 映画には「ストップ・モーション」という技術があるが、近代性には同じような意味で、〈対象への停止〉ともいえる特徴がある。これは世界の空間化―脱時間化―客観化を示すものだ。しかしなにが停止するのだろうか ― 実存的な運動が停止するのである。わたしたちの存在を物の間に投げ込み、このことによって物が人間的なものになる運動、同時に物によってわたしたちの実存の具体的な形式を作り出す運動が停止するのである。逆に言うと、この〈対象への停止〉は、人間の意識を風土から抽象し、意識自身の内容の空間性からも抽象する。こうして人間の意識を絶対的に時間化―脱空間化―主体化したのである。

近代的な視点は、本来は常にある運動において干渉しあっている人間と物との関係を「固定的な関係だ」と錯覚させることで、本来は区別しようのない主体と客体という幻想を成立させたのだ、とベルク氏は主張する。

主張1.僕らは主体で物や環境は客体だ(僕らの常識←近代思想の前提)。

p.158 二元論では、主体はまず、心的なものとして、意志をもった行為によって(これは身体的なものにならざるをえない)、客体に一方的に働きかけるとされている。

主張2.僕らと物の間では絶えず相互にそのあり方に干渉するような運動が起きている(ベルク氏)。

p.158 ところが人間は存在論的にこの関係に参与するが、風土ミリューのうちにある物も、同じようにこの関係のうちに参与するのである。人間の存在と物の存在は重なりあい、ある程度までは同じものとなるということだ。だからわたしたちは物との間で、単純な主体と客体の二元論では考えられないような複雑で動的な関係を結んでいるのである。

真実に妥当するのはどちらの視点だろう?

どうしても満たされない気分

人間と物との関わり方といえば、近年日本で社会現象を起こした断舎離が思い出される。
ベルク氏の仮説からあの思想を論じ直すこともできるだろう。
そして断舎離といえば僕は常々、これをめぐる人々の行動は混乱している、大げさにいえば病んでいると感じてきた。
書店の目立つ棚に、断舎離の指南書と、(ある目的に特化した/ある趣向に特化した/ある店舗における/お得な)買い物の指南書が大量に並べられ売れていく光景に、その混乱は端的に表れている。
つまり僕たちはとても豊かな生活を送りながら、常に矛盾した不満や不足を感じている。
このような不満感や不足感は人類史上かつてなかった、今の時代に特有の気分だ。

この気分を現代人の抱える病であると断じ、その感じ方とそれが伴う行動のパターンを病の症状とみなして問題の分析を試みた随筆を見つけた。
角幡唯介『探検家、36歳の憂鬱』(文藝春秋、2012)の一編「富士山登頂記」である。
その内容は、探検家である著者が、満ち足りた生活を送るホワイトカラー層があえて富士山登山や皇居ランで汗を流そうとする様子を奇異に感じ、その原因を推論するというものである。
そこで彼が言うところの病の描写が、この現象をとても的確にとらえているのだ。
長くなるので次の記事に移って引用させてもらう。