地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

2 生きている感覚を探し求める日本人

「富士山登頂記」が語る現代日本人の病的な気分

(このエッセイを含む角幡唯介『探検家、36歳の憂鬱』(文藝春秋、2012)を引用する経緯については前の記事を参照)

私は自分がある種の病気であると思っている。そして申し訳ないが、あなたもある種の病気であると思っている。

私の姉もある種の病気であるし、弟と妹も当然病気で、意外と深刻なのではないかと私は危惧している。父と母はどうだろう。たぶん軽い症状に時折陥るのではないだろうか。だが祖母や祖父は病気ではなかったはずだ。

この病気の特徴としては、時代による影響をもろに受けていることと、それに地域差と職業差が激しいことがあげられるだろう。例えば東京などの都市部に住み、さらにデスクワークに従事しているホワイトカラーの人たちの間では症状が深刻化する傾向がある。一方、農山村や漁村で第一次産業に従事している人なら、この病気の心配をする必要は全くないだろう。この病気に自覚症状はまったくなく、命に別状もないため罹患してもまったく問題はない。私たちは病気が発症してからも通常通り日常生活を送れるし、実際送っているのだが、よく考えてみると実はそこにこそ病気の原因の根っこが張っており、日常生活の進行が病を進行させるというか、日常生活そのものがもはや病であるというか、そういう捉えどころのない特徴がこの病気にはある。

ここでいう病気とは、身体性が喪失してしまった現象を指している。現代の日常生活では、身体を使って世の中を知覚する機会が激減したため、私たちはそのことに苦しんでいる。大勢が富士山を登りたがるのは、無意識のどこかで身体性の回復を欲しているからなのではないだろうかと私は考えている。

(上記の著書 p.153より)

著者の角幡さんは、自分が探検することを通じて生の実感を得た経験を根拠に、人々が技術の力に守られ自然から自他の生死にかかわるような刺激や介入を受けがたくなった事実がこの病、すなわち「身体性の喪失と生感覚の無化」(同 p.160)を招いていると主張する。

身体を使って外界を知覚し、自然の中に自分の存在を確認できる過程が失われ、私たちの身体は今悲鳴を上げているのだ。日常生活から生感覚が失われてしまったのだから、現代社会に閉塞感が広がるのは当たり前だろう。

私たちは無意識のうちに考えているのだ。じゃあどうしたらいいのだろうと。そして、そうだ、富士山にでも行こう、ということになった。それが富士山登山が隆盛を迎えている、根っこの理由なのだ。

(同書 p.161)

富士山に登ったり皇居を走ったりして、身体という制御不能な自然を活性化させて生感覚を取り戻そうという試みは、とても理にかなった行為のように思える。でも考えておかなければならないのは、富士山に登る人たちは決して健康ではないし、皇居を走る人たちも決して健康ではないということだ。データの上では健康になるのかもしれないが、目には見えない、データとしては検出されない身体のどこかが機能不全を起こしているから、彼ら、彼女らは登り、走り、健康になろうとする。富士登山などにみられる健康ブームは、世の中が健康なのではなく、現代という不健康な社会の実相の裏返しなのである。

(同書 p.163)

著者は、自分はホワイトカラー層とは価値観を異にするが、この病においては自分の方が症状が重く、だからこそより強い刺激を求めて探検を行っているのだという。

この人たちの病根は自分と同じである。治療の方法はない。富士山に登っても、チベットを探検しても、生感覚は完全に充足されない。病巣を取り除くことができないまま、私たちは生きていくのである。

(同書 p.165)

この気分(角幡さん曰く病)の感知者(いわば患者)とその程度の重さ、感じられている喪失感の様態、その代償行為としてアウトドア活動に励むこと、といった著者の観察は、日本で広く見られる現象に即していると思う。
ちなみに僕はこのような症状を自覚していないのであくまでもまわりの人たちを見てこう感じたにすぎないのだが、あなたはどう思うだろう?

僕は、「富士山登頂記」の叙述は今日の日本の状況を的確に表しているが、著者がその原因だとみなしたことだけは誤っていると思う。
僕らは自然を遠くに見やっているようでいながら、日々ニュースを通じて全国・全世界で起きた事故のあり様を観覧し、多様な天災・人災の客観的なあり様をある意味では過去の人々よりもずっと生々しく知っている。
それら様々の災いを自らに起きうることととらえ、保険をかけるなどしてできるだけ備えたいと思う気持ちは、昔も今も変わらない。
そのような災いはきっと自分の身には起こらないだろうと楽観視する態度すらも、昔と今で本質的には変わっていないと思う。
僕は、人々のアウトドア活動への志向性は、そのような自然と自分の関係性とは別のところから発する欲求であると思う。
体を張って自然に翻弄されるような生活を送ることとアウトドア活動のたしなみの間に、筋の通った関連性はないと思う。

ちなみに、かつては多くの社会で野蛮で危険とみなされマイナスの価値を帯びていた野生の空間がアメニティとしてプラスの価値を帯びるようになったきっかけは、ベルク氏によると風景(自然科学の観点からいう景観と人間の主観とが織り成す、価値を帯びた景観)の知覚に端を発するとのことである。

p.281 この逆転は、歴史的にはとても重要なものである。風土エクメーネの一つの動機モチーフ、すなわち新石器革命によって生まれた野生の空間が逆転したからである。これはごく短期間で起きたことではない。ローマ時代の避暑と現代ヨーロッパのヴァカンスの間には、二千年の月日が流れている。しかし多くの世紀を必要としたこのプロセスにおいて 、とくに重要な意味をもつ出来事があった。決定的だったのは、四世紀に中国で風景が発見されたことだっただろう。まさにこの時期に、野生の象徴そのものである樹木に覆われた山の価値が、マイナスからプラスに変換したのである。わたしたちは現在でも、その時に生まれた風土性のうちに住んでいるのであり、その傾向はますます強まっている。

なお、ヨーロッパで風景が発見されたのは中国よりずっと遅くルネサンス期(紀元14世紀~)だそうだ。
無論、日本人の精神はヨーロッパの民族よりも隣国の方からより強く深い影響を受けているだろう。
ベルク氏の風景論はそれを主題とした本が何冊も書かれているほど広く深い内容を有するので、ここではこれ以上触れない。
でも後の記事でも触れるので、その時にまた思い出してほしい。

さて話を元に戻そう。
『風土学序説』を読んだ僕がその病的状況の病根だと考えるのはもちろん、僕たちの認識上の混乱である。
人間全員の現実感においてまるで自分(たち)の一部であるようにとらえられている物(「風土」状態の事物全般すなわち環境)を、自分を取り巻く環境である、すなわち決して自分ではない物の群れだと断じる今日の日本で主流の世界観が、日本人のこの病すなわち意識上/意識下の感覚と意識上の認識とのずれを招いていると思う。