地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

3 生きている感覚を取り戻す方法 -1

日本人が失った体

前記事で引用した『富士山登頂記』の著者の角幡さんが「自然」として挙げた事項には、自然環境だけでなく人間関係や生殖といった僕らが内にもつ制御しがたい事柄も含まれる。
これはベルク氏の学説とも一致する。
そういった自然について角幡さんは下のように述べた。

今、私たちの生活はそうした自然の横暴から完全に切り離されている。癌などの深刻な病にでも罹らない限り、自然の横暴、すなわち死に怯えて暮らすことはほとんどなくなった。それは人間にとってとても良いことだったに違いないが、それによって世の中の本当のことを身体で知る機会が失われてしまったのではないだろうか。 (同書 p.159)
しかし、そのような自然的事柄も僕らがそういった事柄と出会う機会も、自ずから僕ら人間から遠ざかったりはしていない。
僕らは今日でも角幡さんが挙げた自分の内外の自然に対して時に深い関心を寄せ、心理学から数学まで幅広い分野の科学を通してそれらをのぞきこもうとしている。
そして以前に述べたようにその機会は今も昔と変わらず僕らのかたわらにある。
実際に失われ続けているのは、人の身やその人の身に連なる身内の人たちとそういった自然とをつなげる回路の方なのである。
問題は「人間にとってとても良いこと」を実現せんがために、自分の暮らしに意図せず関わってくる様々な機会の存在から目を背けようと努め続けている僕らの思考回路にある。

角幡さんは、彼が日本人に見出した「身体性の喪失と生感覚の無化」(『探検家、36歳の憂鬱』 p.160)という病は「時代による影響をもろに受けている」(同書 p.153)と言う。
角幡さん(30代)の祖父や祖母の世代は罹患しておらず、両親の世代は「たぶん軽い症状に時折陥るのではないだろうか」(同書 p.153)という程度で、歳が若ければ若いほど症状が重いと彼は言う。
その程度の差は、『風土学序説』の視点と言葉を使うならば、現実において風性(コーラ)または風土ミリューを認識する程度の差に反比例する。
この現実の「風土」をより日本人に身近な言葉で代表させるならば、それは世間である。
この「病」の重さは、本人が自分の生活においていわゆる世間を意識する程度と反比例している。

ベルク氏は『風土学序説』で世間体という日本語について以下のように分析している。

p.342 これは世間にある身体であり、世間とは他者との関係で作り上げられた世界のことだ。…これが世界性を示すのは明らかであり、世間とは社会一般ではない。社会とは、西洋から輸入された抽象的な普遍主義的な概念で、明治時代に中国の古い言葉の意味を変えて、作り直された語である。ところが世間は具体的なものだ。これは独特な風土ミリューの現実を表現するものであり、ここでは人々、言葉、物がたがいに集まり、交っている。だから近代の存在論とは本質的に異質なものなのだ。
世間体という用語がここで興味深いのは、その具体性のためである。実際に世間には「体」があることを示唆するものであり、世界性の視点からは、これは本書で風物身体と呼んでいるのに相当する。しかし西洋の考え方の影響のもとで、日本でもこの「人の世間体」がそれほど感じられなくなってきたことは、歴史の経験からも明らかである。近代とは、どの社会においても、風物身体に逆行するものなのだ。そして実際に世間体という言葉は、現在では死語になりつつある。この推移は、日本の社会が個人主義に次第に浸透されてきたことを示すものだ。たとえば「世間体を構わない」という表現は、かつてのように「恥知らずである」という否定的な意味よりも、「人の噂を気にかけない」という肯定的な意味に変わろうとしている。
p.343 それぞれの人間の風土ミリューには固有の風土性がある。世間体は日本で作られた概念だが、人間の実存にとって根本的な存在論的な構造を文字通り示すものとして、普遍的な価値がある。これは動物身体と風物身体の動的な結合を示唆するものだ。

世間体の「体」は身体よりも体裁に由来すると思うのだが、この語が「実際に世間には「体」があることを示唆する」というベルク氏の意見には僕も賛成する。
日本人は今日のような近代化を遂げる以前、自分の世間すなわち(自分に直接/間接的に関係ある)他者との関係において物をまかない、(直接/間接的に)助け合って生きていた。
近代化にともなって物もサービスも個人が自由によそから買ってくるようになり、世間はかつてのように日本人一人ひとりからわが身に確実に関わるものとして実感されなくなった。
しかし、たとえ生活様式が地域内の相互扶助を下地としたものからグローバルベースへと変わっても、世間を成立させるような物のとらえ方にはベルク氏が言うように時代を超える価値があったのではないか。

「世間体を気にする」という言葉においてしか世間というものを知らない世代の人は、世間体=世間に対する体裁であるから、それが相対するまわりの目とそれが招く評判を連想し、世間とは社会的なものに限られる(対人関係だ)と考えがちである。
しかし僕は、世間の実状は昔も今ももっと広く総合的な、つまり人間以外の生物・無生物の存在を巻き込んだ生活全般に関わることだと思う。
その根拠は、今なお世間が維持されている田舎で僕が暮らして得た体験である。
田舎では経済活動を初め共同体内の活動全般において共同体のメンバーがお互い様の精神で助け合うが、その助け合いは社会環境だけでなく自然環境、共同体と個人両方に属す生活の物質的な側面とも深くかかわる。
たとえば古い時代ならば、家々の茅ぶき屋根を維持するために全戸から人を出して1件ずつ順繰りにふき替えをする、そのために茅を採取したり加工したり保存するだとか。
また現代ならば、車を持っていない青木さんはいま家にいるみたいだけど買い物に行くのに乗せていこうかとか、その逆に別の物を持っている人に頼ろうとするとか。
つまり世間という人間関係では、自分と他人が自分の/他人の/共有の物を巻き込み、とても具体的なレベルで生活を支え合っている
そのように世間は「世間体=世間に対する体裁」の背景にある、人間の集団的な活動の総体だ。
これはまさに目の前で現実が実現する際に背景となっている関係の網の目そのものである。
この世間の特徴は、ベルク氏が風土学の視点と類似した思想としてレジス・ドゥブレ氏の提唱したメディオロジーという学問を紹介し述べたことに通じる。

p.191 伝達するということは、コミュニケーション論で考えられているよりもはるかに物質的なもの、通時的なもの、政治的なものを示すものである。
p.192 伝達するためには、そのために好ましい風土ミリューが存在する必要があり、それでなければ情報は失われる。この風土ミリューは物質的なものであるとともに、非物質的なものでもある。技術的、社会的、および政治的なものでもあり、器具と制度も含まれる。

日本の田舎他の共同体に残る世間のような関係はまさに、それを通して自然の世界が透けてみえるような人間の世界そのもの、僕たちが物に関わる際に必ず通る現実の風性(コーラ)であり風土ミリューだ。