地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

4 生きている感覚を取り戻す方法 -2

現代の日本人の病の治療方法

前記事の引用でベルク氏は「世間は具体的なものだ」と言った。
かつての世間は、日本人が暮らす集落のような共同体であった。
現在、都市などで暮らす僕たちの生活はグローバル化しており、隣近所すら顔の見える関係にはない。
それでも、現在の僕たちの一人ひとりの生活はやはり抽象的ではなく、あい変わらず具体的である。
そしてグローバルな流通網も、手段は変わっても信頼を基盤としたまったく具体的な物財のやりとりであるという点は、近代化以前と変わっていない。
つまり僕たちは、やはり自分は自分の世間で生きているという認識をもち、その世間を気遣って然るべきなのだ。

前述の病(身体感覚が麻痺したような不全感)の原因は、流通網にのって日本中・世界中から運ばれてくる物をそのスペックにおいて選び、お金で手に入れ、自由に捨てようとする態度、自分はそうして然るべきだとみなす認識である。
この病を治す方法、つまりもし角幡さんのいう身体性と生感覚を取り戻そうとするなら、そのために僕たちがすべきことは一つだ。
自分の現実の風性(コーラ)、すなわちあなたの生活物資の背景にある事実を、生活物資そのもの(トポス)を見るのと同様に直視すること。
自分の衣食住、仕事、交通手段、娯楽、そのほか生活の全側面にかかわる物すべての来歴と手放す物(もちろんゴミも含む)の行く末を具体的に確認し、それらに関わる人々の活動と彼らの住む場所のあり様を想像すること。
つまり自分の持ち物の他、生活において実際に世話になっているすべての物の背景を、自分のグローバルな世間だとみなして気遣うこと。
これだけでいい。
自分の世間体(世間に対する体面)、つまり物の来歴と行く末に関わる人々からあなたへ注がれるだろう目線を気にすること、それらを気にして自分の行動を変えることは二の次にしてかまわない。
もしあなたがこの病を抱えていると感じるのなら、あなた自身の認識を変えるだけでもこの病(自分の行為とその実感が一致しない感じ)は完治できる。

たとえば今日コンビニで見かけて買わなかったあのポルトガル製のビスケットは、以前に食べたら国産の菓子に劣らず美味しかった上に国産と同じ価格で倍ほどの量が入ってるけど、なぜだろう?
その包装紙に書かれた情報、インターネットを検索して得られる情報、マスメディアを伝って得られる情報で、物だけでなく情報もグローバル化が進んだ今日、その「なぜ?」の多くは突き止めることができる。
手に入れなかった物は自分に関わっていないと思われるかもしれないが、認識した商品を買っても(供給された物が需要に応えた)買わなくても(需要に合致しなかった)その背景(商品の生産や流通)には影響を及ぼす。
人は対象事物に出会うタイミングで、そのように多くの他者に影響を及ぼすような判断を下している。
自分のその判断を無意識に済ませず、そのような影響力をもつ判断として自覚することがこの病の治療法である。
身のまわりの物すべてにおいてこのような確認と問いかけを行い、自分は誰の何のおかげでこのように暮らすことができているのか、自分はその誰かにどのような影響を及ぼしているのか、受け取った物やサービスにおいて彼らに十分報うことはできているのか、そして自分はその受け取った物やサービスをその価値に見合う形で生かせているかを足元から見直してみたらどうだろう。
どんな気持ちになるだろう?
現実をまるごと受け止めてこそ、生きている実感は感じられる。

そのようなことをいちいち気にするのはかえって病的な行為だろうか。
僕は、自分の生活を直視することは、それがどんなに膨大な情報を含むとしても、健全な行為だと思う。
所詮は人間たった一人分の営みであるし、確認しきれないと言われたらわざわざ営む価値はあるのかと聞き返したくなる。
認識を改めるだけでこの病は治るが、しかしまた認識を改める以外の治療方法はないのも事実である。
そのような確認行為、つまり口先でなく具体的な気遣いを煩わしがって現実の背景から目を背け、物のスペックと価格とゴミ収集日だけを気にかけていたい人は、この病に自ら進んでかかり続けるだろう。
そして自分に欠けた共感覚を無意識下に埋めようとして、自分と物の出会う現場においてその背景を指し示すことのない光景をSNSで共有しようとするような行為を繰り返すだろう。
いま流行中のインスタグラム上に出現している「いいね!」でつながる間柄は、僕たちが見たいものだけ話したいことだけを寄せ集めた抽象的な共同体だ。
風土学の視点からいえばそれは土性なき風性、いわば風情や雰囲気、昨今の言葉で言い換えれば「空気を読む」の空気だ。
歴史にたとえるならば架空の国の史実である。
その「雰囲気共有欲」は、本人が自分の衝動の根をつかむまで、もう一つの極である「機能的物欲」と対になって重みを分かち合い、本人の生活という天秤を揺らし続けることだろう。

f:id:appalaried:20180308221115j:plain
バランスをとる必要性を感じることがそもそもおかしい、というのが本書の主張だ

その衝動とは、人間が全員生まれた時から現す風土性である。

そのような病的症状を呈し、上で示したような根本的治療を試みた人はどうなるのだろう。
まだ専用のシューズを携えて富士山や皇居へ汗を流しに行きたくなるだろうか。
それよりもっと別のことをしたいと思うようになるのではないだろうか。