地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

1 生き物の本能と性質は分けて考えるべきである

地理学者の提示した「人間の存在論的な構造」

ベルク氏は『風土学序説』で哲学の用語を使う。
上の「存在論的な構造」は難しそうだが、ベルク氏が説明するその内容はごく具体的だ。
一般的にこの言葉がどういう風に使われているのか僕はまったく知らないが、本書においてこの言葉は「人間が全員無意識にしていることを俯瞰したらこのように見える」というような意味であり、その内容は下に示す通りである。

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人間以外の動物は環境への適応すなわち身体的な進化(淘汰)だけど、人間はちがう。

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人間は他者と共に環境(の事物)を価値づけ、名づけて用いる。

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「風土」(という関係)が展開する。

上の図が示す一連の流れを指して、ベルク氏は人間の風土性、また人間の構造契機と言っている。

人間性とそれが生みだす文明のそもそものきっかけとなる自分の限界の自覚は、人間を他の生物と区別する人間の本質とでもいうべき特徴である。
人間が他の生物と同様にもつ本能に加えられた、人間独特の本能ともいえるか。
それはベルク氏がルロワ=グーランの言葉を借りて「ヒト化」という形で示した生物学的な進化の帰結である。
人間はその発達した脳ゆえに、自分の生まれ持った能力に限界を認める。

一方、その後に続く世界認識と行動様式は、その本質を人間が主体的に受け止めて起こすものである。
それらも生物の中で人間だけに固有の特徴であるが、それらもまた人間の本質というよりも、こちらは「本質から導かれるあり方」である。
人間の本質に対してその性質つまり人間性と言ってもよい。
本質(本能)が本人にとって選びようのない生まれつきの要素であるのに対し、その受けとめ方は本人の気の持ちようや行動次第で変わるし選び得るものである。
つまり人が自分に限界を感じることはその器質が変わらない限り避けられないが、その所与の器質において人間らしく生きるかどうかやどのように人間らしく生きるかは、人間本人(または本人たち、つまり社会)の意思と行動の上で選ぶ余地のあることなのである。
そして人間の本質(本能)が生涯変わらない静的な性質であるのに対し、それをどう受け止め行動に表すかということはその思考や行動の現れの中で発生する動的な性質である点で両者は根本的に異なる。

技術と象徴のシステム、すなわち僕たちの文明が、僕たちの現実誤認のせいで僕たちの体から離れて独り歩きを始めてしまった現在、この人間の本質と人間性の区別は重要な意味をもつ。

昨今のシンギュラリティを待ち受ける向きなどは、この文明独り歩きという現象だけを見てその原因を熟考しないまま、ベルク氏の言うヒト化に手をつけようとしているように思えてならない。
(詳しくはリンク先の引用を読んでほしいのだが、人類はヒト化・人工化・人間化の3つのプロセスのうち後者2つにおいて文明を発達させてきた、とベルク氏は主張する。人類が社会レベルで自分たちのヒト化のプロセスに自ら手を加えることは史上他に例を見ないと思う。)
ただし僕がシンギュラリティについて知っていることは娯楽サイト・デイリーポータルZ記事1つ分に限られるので、なにか間違っていたら聞き流してほしい。

文明(人工化・人間化)が独り歩きしている原因がもしベルク氏の仮説のとおり僕たちの現実誤認(現実の一部の認識漏れ)だとしたら、僕らはこの現状を理解した上で新たな時代の現実としてこれを受け入れるべきなのか。
客観的に非のうちどころがない個人主義で世界中の人が自分一人分の自由を謳歌し、経済格差は世界中で広がり続け、シンギュラリティでヒトが別種の活動体に変えられるを待つばかりのこの現状を。
それとも僕たちは自分の(自分たちの)人間性を回復させるべく、近代化以前のように自分の環境と親しんだ方法で現実を認識すべきなのか。

そもそも人間らしい生き方とは、どんな生き方か。
西洋近代思想は前近代の人々つまり僕たちの先祖たちに、何をしたのか。

機能を求め技術を発展させる人間性、と…

上のような問いに答えを見つけるためには、人間の本質と人間性の内容を、上の図より詳しく調べる必要がある。

  1. 人間の本質=自分の体の有限性を自覚すること
  2. 人間の本質的なあり方=技術を体の外へ物へ向かって展開し、象徴で物を体の内へ送り返す
人間が生きながら無意識に行っているこの2つの活動において、実際に何が起きているのか。

暮らしにおける機能という面だけに注目するならそれは、

  1. 自分の体の機能的な有限性(力の限界、大きさの限界、老いと寿命 等)を自覚すること
  2. 物の力を機能として取り込み、その技術によって物をさらに改変していくような生き方
となる。

一方、ベルク氏の方針はこうだ。

p.180 わたしは技術的な決定論や生態学的な決定論に対抗して(風土エクメーネ的な関係の解釈においては、多くの場合このどちらの決定論も同じものになる)、象徴の地位を取り戻したいと考えている。

上で述べた機能中心の世界観は決定論の話ではないが、人間の生態・生理や技術の力が現実を形作っていると考える点で、両者の考え方は根っこのところで共通している。
いや、物の背景を無視し機能ばかりに気をとられている姿勢は、すでに史的唯物論などの技術的決定論に支配されているからこそそうなのだろう。

それに対しベルク氏は、象徴の役割を重視しながら風土性の発現過程を検証した。