地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

2 人間は自分の限界を自覚する生き物である

風土性と宗教

人間は自分に限界を感じる生き物である。
人間はたとえば自分の能力に限りがあることを自覚し、環境を取り込んでこれを克服しようとする。
しかし人間はまた、それとはまったく別の方面から自分の力の限界を自覚してもいる。
それは、自分では制御できない力が自分を生かしている、自分は今ここに生きているけれどそれは自力だけによるのではない、という認識である。
自分の能力や意思において誕生した人間は、いや生物は、いまだかつて存在しない。
人間以外の生物は、人間のようには自分の身体能力の限界を自覚しない(環境を取り込んでその限界を克服しようとしたりしない)のと同様に、自分の生命が他者から影響を及ぼされていることなど感知しない。
けれど人間は成長と共に全員、その事実を暗に明に自覚するようになる。
このもう一種の有限性の自覚もまた人間を自分の体の外へ、物の方へと向かわせているとベルク氏は言う。

p.228 記号作用は、生ける〈肉〉の感覚との特定の絆のうちにしかありえない。そして生ける〈肉〉そのものは、物理的な宇宙の法則に基づいているのである。象徴の力とはまさに、この絆を物理的な延長から解き放つ能力である。この力によってわたしたちは、物の無限の多様性の彼方で、自分の身体のうちに世界を取り戻すことができるようになり、〈全体〉との神秘的な結びつきを感じられるようになるのである。
この視点からみると、風土性の存在論的な構造は、宗教的な感情の起源とじかに結びついたものにみえる。風物身体である世界なしでは、人間は存在の半球にすぎないからである。そして人間はまさに、延長のうちに棲むさまざまな存在者である自然の物には還元できない関係において、世界を解釈するように作られているからだ。要するに、人間は自然のうちに超自然的なものを感じ取り、象徴を使って超自然的なものとの存在論的な絆を表現するようにできているからだ。

本書でベルク氏は、人間は自分の風土性すなわち存在論的な構造のために宗教を(形式はなんであれ)必要とすること、風土学の視点からみると宗教とは何なのか、近代思想によって人間と宗教の関係はどう変わったのか(または人間と宗教の関係の変化がどのように近代化を招いたのか)を論じている。

「死への存在」と「生への存在」

和辻哲郎が『風土 人間学的考察』を書く前に参照したハイデガー存在と時間』には「死への存在」という有名な言葉がある。
ハイデガーはこの言葉で、人間が死の可能性すなわち自分の寿命の自覚において自分の有限性を自覚する生き物だということを示した。
この考え方は、能力についての限界の自覚へつながる。

一方、和辻氏は『風土』でこの言葉に対抗するように「生への存在」という言葉を使った。

人は死に、人の間は変わる、しかし絶えず死に変わりつつ、人は生き人の間は続いている。それは絶えず終わることにおいて絶えず続くのである。個人の立場から見て「死への存在」であることは、社会の立場からは「生への存在」である。そうして人間存在は個人的・社会的なのである。
和辻哲郎『風土 人間学的考察』p.20)

ベルク氏は和辻氏のこの論述を以下のように評した。

p.230 わたしたちの有限性は、人間の生がある日に終焉を迎えるという事実だけによるものではない。世界とのすべての関係に有限性が刻印されているのである。人間の風物身体の仮想的な無限性によって、すべての瞬間において、人間の動物身体の有限性が感じられるからだ。宗教は逆にこの事実に基づいて、誰もがこの有限性を超越できる可能性を示すのである。この意味ではカトリック教会の「キリストは生である」という表現と、和辻がハイデガーの『存在と時間』の死への存在(Sein zum Tode)という概念を批判しながら示した「生への存在」という表現を関連づけたい。日本人の哲学者である和辻にとって、人間存在の社会的な次元は、一人一人の個人の死の可能性を超越しているのである。

僕は拙ブログでベルク氏の主張をそのまま紹介したいと考えているが、上の部分はちょっと不十分じゃないかと思った。
というか正直、「キリストは生である」の意味するところがキリスト教に通じていない僕には理解しきれない。
ただ、世間において生きる日本人が「生への存在」と言ったときに考えることは、自分が死んでも世間は続いていく、といった意味もあるかもしれないけれど、自分が生まれた(または生きている)のは自分一人の力によるものではない、というまわり(先祖と他人と神がかったもの)への畏敬の念の方が一般的じゃないかなと思ったのだ。
和辻氏自身も上の引用で明確に「死に変わりつつ」と言い、ただ「個人的・社会的」と言って超自然的なものには言及していないのだが、僕にはこの「生への存在」という言葉はどうしてもこのような意味をもつように思えてしまう。
つまり社会的であると同時に、人間ではない自然の力への信仰へとつながるような考え方であるように思える。
そしてベルク氏も、他の道筋からではあるがこれとまったく同じ考え方に至っている。

p.228 風土性の存在論的な構造は、宗教的な感情の起源とじかに結びついたものにみえる。風物身体である世界なしには、人間は存在の半球にすぎないからである。そして人間はまさに、延長のうちに棲むさまざまな存在者である自然の物には還元できない関係において、世界を解釈するように作られているからだ。要するに人間は自然のうちに超自然的なものを感じ取り、象徴を使って超自然的なものとの存在論的な絆を表現するようにできているからだ。
この関係において、超自然的なものは、風物身体の隠喩として現れる。それが超自然的な社会性ということだ。わたしたちの風物身体はなによりも社会的なものだからである(これはデュルケームの宗教論でも確認されている)。宗教(religion)は二重の意味でreligioである〔ラテン語の名詞のreligioには、「結びつける力」と「聖なるもの」という意味がある〕。宗教は、人間の動物身体によって物質的に分離されている社会的な存在を集めるからであり、物の物質的な形式を、聖なる霊性の次元に向けて超越させるからである。