地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

3 人間の有限性の2つの面と文明の2つの面 -1

象徴的なものの地位を取り戻す、とは?

拙ブログでは以前、文明の発達においては物の本質が先だつのか、それとも人間の恣意性が先だつのかという問題を取り上げた。
その際は、このような「本質は人間にあるのか物にあるのか」という視点が既に誤っていると述べた。
なぜかというと「風土」のような物のあり方は人間と物の間で起こる運動だから、つまり文明とはその運動自体であって運動に関わる人も物も両方ないと起こり得ないから、である。

その運動の内容とは前述したように物の「風土」化すなわち技術と象徴の体系の展開である。
技術体系も象徴体系もそれぞれ別のやり方で、人間が己の身体的な有限性を克服すべく、環境を己のうちに取り込もうとするべく展開される。
技術による有限性克服方法はもちろん、「風土」で己の能力を増幅して現実的な行使力を増すというやり方である。
では、「風土」の象徴は本人に何をするのだろう?
僕たちは象徴を用いて何を克服しようとしているのだろう?
技術の試みることが体の物理的な限界の克服であるなら、それは前記事で述べた死への存在たる人間としての行動であるといえよう。
ならば象徴は、もう一方の「生への存在」としての人間らしさの発揮なのではないか。
「生への存在」は自分の誕生と生命維持において、自分以外の力の関与を確信している(詳しくは同じく前の記事を参照)。
その力は既に自分の中に宿っている、それは確かだが、なかなかはっきりと認知できない。
そして人間はその何かを確かめるべく、自分の外に、つまり多様な物の中にその正体を求めていく。

p.182 風土エクメーネの視点は、生態学的―技術的―象徴的な関係であり、それが生まれてきた自然をかならず前提とする。 象徴的なものの地位を取り戻すことは、認識論的にも、文明論的にも、実存的にも重要な試みである。これは現実の風土エクメーネの基礎となる出来事について、根本から考えなおすきっかけになる。

物は人間にとってその機能性と象徴性において役立つ

ベルク氏は文明論を例に挙げ、人類が狩猟採集生活から生産的な経済へと移行した新石器革命に言及する。

p.183 ゴードン・チャイルドの伝統的な理論では、近東の社会を〈生産社会〉に変えたのは、経済的な理由であり(資源の稀少化)、その経済的な理由は気象の変化によって決定されたと考えている(紀元前一万二千五百年から一万年前までのナトゥフ文化期における乾燥化)。

ところがである。

p.184 ところでコヴァン*1が示しているように、この生産経済への転換が発生する直前に(紀元前九五〇〇年頃)、ヒアミエンにおいて、「まだ以前と変わらぬ狩猟―収集経済の状態であるにもかかわらず」、次のような芸術作品が登場しているのである。
二つの象徴的な姿、女性と牝牛の姿が中心に描かれている。この像は、近東の新石器時代の全体と青銅器時代を通じて、目立ち続ける。*2
…このシンボルは、新しい宗教の登場を示すものであり、「純粋な心の転換」(54ページ)といえるものである。技術的、経済的な変化からは、こうした転換を根拠づけることができない。まず最初に心の転換が訪れたのである。 コヴァンによると、神的なものがこのように人間の姿をとったことは、「神の権力と人間の有限性が、たがいに堅く結びついた二つの極をなす」(104ページ)垂直な位置関係における「動的なドラマトゥルギー」(103ページ)を作り出すものである(牡牛は、女神の脇役を象徴する)。この「神と人間の間に新たに開いた空隙」(104ページ)の動的な関係が、構造的な欠如の原因となり、これが風土エクメーネを変えることで、人間の条件を変えようとする欲望を生みだしたものとみられる。女神が人間の姿をとっていることからも、これははっきりとしている。

これが「風土」の象徴面の、技術の発達ばかりに頼らず象徴それ自体で展開した様子である。

p.184
新石器時代の女神は、その後の時代の創造する神の歴史的な先駆けとなる。それだけではない。人間はある意味で、周囲にあるすべてのものに、自己をみいだすようになったのである。人間と自然を統一する位置にある神が、人間の姿をとることで、その象徴的な生成の次元において、経験的な人間と、人間が直面する自然とが和解する。
*3
 ところで環境のうちに人間が、形而上学的な姿を通じて自己をみいだすということは、風土エクメーネの基本的な存在論的構造を明らかにするものである。〈風物身体〉は、世界の涯まで延長されるのである。

僕は、上の引用で述べられている「環境のうちに人間が、形而上学的な姿を通じて自己をみいだす」の意味を理解するのに苦労した。
わかった人には不要だろうけど、一応僕が理解したなりに解説しておこうと思う。

「風土」の象徴面は、その「風土」が役に立つかどうか(機能面)を人に問題視させることなく、それを見る人の姿を己(「風土」)の中に映して見せることで、その人に自分以外の力が「そなわっている感じ」「もってる感」を付与し、いうならばその人の存在意義のようなものを無条件に与えてくれる。
物がそのようにして人に対して果たすところは、はたから見てもわかる、つまり客観的な形でも用を足す機能性より、さらに本人の思い込みのような主観的な心の動きに頼るところが大きい。
それでも明らかに人の外側から(すなわち人自身の主観単独ではかなえられない形で)そうしてやることで、人間が生来抱えていた「なぜ自分は生きていられるのか」というもうひとつの不全感を満たすのが「風土」の象徴的な役割である。

人間は、自分一人の力ではなぜ自分が生まれたのかがわからない上に、その無意識の不全感が生じたら最後、その理由がわかるまで実はずーっとそのことを気にし続けていて、ついにはまわりの物の中にその理由を見てしまうような生き物なのである。
その物が自分にとって機能的に有益かどうかは横に置いて、僕らは何かのきっかけで傍らにある物から「僕はここから生まれたのだ」とか「これこそ僕が生きるべき道を現している」とかその感情から派生する諸々の好意や懐かしさなどを感じ、そのそばにいたくなったり鑑賞したくなってしまう。
それがある(いる)と心強く、それがまるで自分の味方をしてくれているような気持になる。
それがある「風土」の機能性ならぬ象徴性だ。

p.360 すべての決定論は、人間を自然から説明できると主張する。そして自然について語りながら、自己について語っているのである。それはわたしたちが自分の主観性を一方的に投影するからというわけではない。わたしたちの存在そのものの構造が、絶えざる脈動のうちで生まれ、この脈動によって、わたしたちの風物身体と動物身体が、たがいに通態しあうからである。

地理的決定論に類される話には、必ず妥当するところと矛盾したところがある。
たとえ言葉にされなくても、たとえば僕らが自分の好む物や身近な物に抱いている感情には常にそういう特徴がある。
その特徴は、人間はたんなる(もともと自分とは別個の)物と(それを風物身体と成すことで)ある程度は同一化する(物の中に己の一部(味方)を見いだすと同時に、その物が存在することに影響を受けて自分自身の行動のしかたや考え方も変わっていく)が、真に(客観的にも)同一化することは絶対できないという事実の帰結するところである。

このような言い方をしてしまうと象徴性とは人間それぞれがもつ嗜好の問題に聞こえるかもしれないが、そう言い切っていいものか僕にはよくわからない。
ただ、次の記事で詳しく述べるが、まわりの事物に機能性だけを求めた人々が身体的不全感に陥ったように、もし人が事物にただ嗜好を満たすような象徴性だけを求めれば、その行為というかその前提にある姿勢は、また本人に不健全な感覚をもたらすだろう。

ある人の「風土」の総体=その人の風土性

p.226 世界は技術によってわたしたちの〈肉〉から作られたものであり、象徴という形でわたしたちの〈肉〉にもどってくる。わたしたちが人間であるというのはこういうことであり、風土エクメーネはここに存在する。

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文明様式(ある文化のルール)は人をその文明に「染める」。

ベルク氏が例にとった芸術作品や宗教のモチーフが人間に対してもつ意味は、機能性よりも象徴性の割合が大半を占める(機能性がまったくないわけではない。機能性のまったくない物は存在しない。)。
世の中にはその逆に、機能性の勝る事物もある。
引用したベルク氏の表現が現実を真に的確に表しているのか僕には判断がつかないが、僕らの「風土」はとにかく全て、技術体系で実現される機能性と象徴(たとえば言葉や絵画 等)体系で実現される象徴性の両面をもつ
その特徴は、対象となる「風土」が生物でも無生物でも同様である。
生物でも無生物でも「風土」はみな必ず多少の機能性と多少の象徴性を備える(神聖な象徴的事物もたとえば文鎮として機能したりもするし、機能性の追求された道具にも必ず名称=象徴が付帯している)。
ある人にとってのそういった「風土」の総体は、その人の風物身体(その人から見た世界)であり風土性(その人の人間性)を表す。
もしその人が環境を自分の体の延長ととらえた主体的な生き方をしている場合、その風土性にはまるで「用の美」のような、本人とその関係者にとって理にかなった様式が現れる。

近代化がある面では極端に進行した今日の日本では、伝統が失われたそのほとんどの地域で「まわりの事物は自分たちの一部である、そのあり方は自身を映す」といった観点から環境を整備しようという活動はかなり限定的にしか展開されていない。
近代的な視点が自分自身と物と他人を明確に区別してしまったため、自発的にそのようにする動機が自分の領土内においてしか(他人の領土や共有空間のような所では)生まれないからだ。
そのようにして日本の国土の大半は、機能性偏重であったり象徴性偏重であったり(そこにも新種の「風土」は生まれつつあるのだが)ただ放置されて無秩序だったりというあり様になっている。

*1:フランスの考古学者ジャック・コヴァン(1930-2001)

*2:Jacques CAUVIN,Naissance des divinites,naissance de l'agriculture.La revolution des symboles au neolithique,Paris,CNRS,1997,p.48

*3:同書 p.105