地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

5 人間の有限性の2つの面と文明の2つの面 -3

「存在意義を問う」という行為

ある人がどのような生き方をするか、ある状況においてその人ならばどういう選択をするか、という問いは、その人の存在する意義を問うているともいえる。

世の中には「存在そのものの根拠またはその様態について根源的・普遍的に考察し、規定する」という、上述のことを考えるのとよく似た営みがある。
一般に存在論と呼ばれる哲学の営みである。
記事の冒頭で示したようにある人が主体的に生きる態度を選ぶ行為は、存在論の定義における「普遍的」を「個人的」に替えた行為である。
存在論という言葉は『風土学序説』でたびたび用いられるので、そちらを読む時にもこの記事は参考になるかもしれない。

しからば我々は具体的な人間の存在の仕方を、すなわちその特殊性における存在を、把捉するために、存在的な認識、すなわち歴史的・風土的な現象の直接な理解に向かわなくてはならぬ。しかしそれが歴史的・風土的現象を単に客観的対象としてのみ取り扱うのならば、上来説き来たったごとき風土の意義は全然把捉せられないであろう。そこで我々は歴史的・風土的現象の理解に当たって厳密に存在論的規定の指導を待たねばならない。
和辻哲郎『風土 人間学的考察』 p.27)

だから上の引用の最後の文をわかりやすく言い直すと、僕たちは歴史的・風土的現象(自分あるいはある人(たち)の体にあたる「風土」)を、人間は一般にどのようなあり方(生き方)をするか、ある状況において人間ならばみなどういう選択をするべきかという視点から理解しなければならない、となる。

p.220 こうして風土性という概念は、これらの特性の全体を示すものとなる。これはその地方に特異な個性といえるだろう。

重要なのは、この特異な個性の概念は、その地方の住民が自分の環境の現象に向けるまなざしを想定しているということだ。住民はこれを感じ、解釈し、ある特定の仕方でこれをみずから生きる。だからここで重要なのは理解することであり、ハイデガー的な世界性(Weltlichkeit)の概念と同じように、風土性の概念にはある解釈の方法が想定されているのである。この方法は、測定可能な対象をその外側から調べる自然主義的な方法とは根本的に異なるのだ。和辻の方法は自然主義的な方法とは正反対に、意味=おもむきがどのように生まれるか、この意味=おもむきをどのように特徴づけるかを、内側から把握しようとする。自然環境と人間の風土ミリューの違いを示すために、和辻はこのような視点に立っているのである。

「風土性の概念にはある解釈の方法が想定されているのである。」とあるが、「ある解釈の方法」とはつまり上で述べた「厳密に存在論的」な方法である。

僕が何かをしようとする、とする。
しかし僕は全能ではない(からそれができないとする)。
だから人間として

他人と共同し文明の作用を借りてその身体的欠落を補い、克服することを続けるか?
もしその望みがかなえられたとしても人間は新たな願望を抱き、また新たな限界が設けられることになるのだが。

それとも、その身体的欠落感からの解脱を目指して出家でもするか?

それとも、近代思想が人に促したように自分の感覚を自分の脳と神経網で直接連なる動物身体内に限って(この「こうすれば自分一人で好きなように解決できるでしょ」という態度が人間本来の風土性に逆らっていたとベルク氏はいう)その範囲内で問題の解決を図るか?

それとも…

p.375 デカルトは、『哲学原理』において科学的な厳密さの条件を定めながら、感受性は「わたしたちの生そのもの」であることを認識していた。なんといっても死体にはアイステーシスはないからだ。ところで近代の二元論とは逆に、風土性の観点からの理想的な方法は、わたしたちの生を抽象するのではなく、私たちの生から出発して厳密に考える、、、、、、、、、、、、、、、、、ということだ。少なくともわたしたちはまだ死体ではないのだから、これはもっとも真なる論理なのだ。

それとも、もうなにも感じなくていいように死ぬか。

人間は生きている間、いかに生きるかとそのためにどうするかを問い続ける生き物である。
そしてたとえ答えが出せなくても、出した答えが間違っていても、その人が生きている限りその人の「風土」は絶えず発生し、その人のあり方を変えながら(加齢に伴う心身の変化、その他の要因による心身の変化)この世界のあり様(本人の「風土」)も変えている。
人間はそのように「風土」において生きられる限りは、たとえ消極的にでもそう生きるしかない。

p.179 風土エクメーネの展開の他の二つの源泉である人工化と人間化は、つねに変動する関係のうちで、たがいに豊かに深めあいながら進んでいる。

世の中にはあまりにも自分の生活を取り巻く状況が非人間的だったりして、とても前向きに生きようなんて気持ちにはなれない人もいることと思う。
だけど人間の諸文明はささやかなものから壮大なものまで、古いも新しいも技術も言葉もどれも本来はすべて、人間がまわりの人たちといかに生きるかを問うてきたせいで今日のような形まで発展してきたものだったはずである。