地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

6 主体性とは、自分の体の主としてふるまおうとする態度である

物を自分の体の一部となす=物の宿主として物に向かう=物の主となる

文明化された物はみな、機能と象徴を通じてそれに関わる人間に自分が生きているという実感を感じとらせるが、ただ目的どおり機能するだけの機械みたいな物にはその役割を果たせない。
どんなに優れた精緻な技術も、象徴によって人に取り込まれることなしには、人間の文明のうちには数えられない。
日本の若者が現実の片側だけを認識することにより覚えている身体の不全感が、それを証明している。
くりかえしになるが、問題は本人の気の持ちようというか、世界を認識する際の態度にある。
機械でもなんでもそれを人の生きた体となす原動力は、人間が自分の本体(半身)と世界に広がるもう半身(日本語でいうところの世間)という両方の体の主としてふるまおうとする意思にかかっている。
その意思とは具体的には

  • まず、その両方を気遣い、そのすみずみまで感覚を行き渡らせようとすること
  • そしてその両方に通じる健全な秩序を見つけて保とうとすること(例:断舎離の実践)
  • そしてその両方において自らが成長し健康でい続けようとすること
である(後の2つは補完しあう)。
それが主体的に生きるということであり、人間性の原点である風土性が前提とする姿勢である。

文明を否定する生き方

人間はまた、自分の外側の物ではなく自分の体自体を媒介として物の本性に接触しようとすることがある。
その方法とは、たとえば瞑想である。
古来、そのような方法で自分の体を認識し、己の有限感を克服することを試みる人はいた。
そのような生き方を貫こうとする人は、文明社会に生きることつまり自ら「風土」を展開することを拒否する。

p.278 野生の空間とは、一時的に立ち入る場合を除いて、通常の人間のためのものではないということである。ずっとここに住むためには、人間の世界を放棄する必要があった。サンスクリット語でアランヤaranyaと呼ばれることから明らかなように、「他なる」世界なのである。
同頁 ダルマは世界の秩序であり(ギリシア語のコスモスだ)、社会規範を遵守することでもある。 アランヤとは彼方、神々の世界、絶対者のイメージである。そして世界を「放棄した」者、絶対的なものを希求する隠遁者がここに赴く。隠遁者の目的は自分のアートマン、すなわち魂と息吹を、森の神であるヴァーユ(風)のアートマンと一致させることにある。

ベルク氏によるとアランヤはエイリアンの語源となった語だそうだ。
日本語に訳せば異邦人である。
しかしそのような人間はあくまでも少数派であり、その他の人々が確かにいたからこそ僕たちは今日のような文明社会を享受できる。
そのように文明を否定して生き方を選ぶ人は、もはや自分の同一性を叙述することすなわち現実の述語(風性)を求めない。
そのような人はいかなる道具も言葉も捨てた一個人して瞑想などを行い、誰かにとっての何者か「として」ではなく、単なる自分自身に到達して自分自身の主となる(自分の体を100%制御する)ことを目指す。

その活動も人間性の発揮される一形態であり、最終的に目指していることも文明の展開と同じく自分の体の主になること、主体性の確立、主体的に生きることである。
ただし本書の主題はあくまでも人間が物と他人と共に展開する体、「風土」の研究である。