地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

7 人間の有限性の2つの面と文明の2つの面 -4

意気地とあきらめ

ベルク氏によると、人間にはたとえ科学の粋を集めても決して認識できないことがある。
いかなる学問も、物の真の本質(本性)について、あるいはある人の真の本質(本性)について、それらを定める運命については語る資格をもたない。
だから学問は人間の有限性の自覚を分析できるが、その根源にある運命に触れられない以上、ある人の身の振り方を断じる立場にはない。

たとえば。
象徴の力を信じる人は技術の力を過信するなということでより深く人間らしい姿勢であるようにも見えるが、今死にかけていて医療技術を求めている人に「それは運命みたいなことだからあきらめて受け入れるべきだ」なんて僕は言えない。
たとえばその人が、たとえどんなに高齢だろうと、いま自分が死んではどうしても困るという状況におかれていたとしたら、「まだ死にたくない」と訴えていたら。
それを言えるのはたとえば、学問には扱えないものを扱おうとする宗教、本人と信仰を共にする人だろう。
むしろ、人間の力と人間にない運命の力のどちらを信じようとするかを問うこと自体が人間でいること、人間性そのものだと言えるのではないだろうか。

それでも『風土学序説』を読んだ今、僕からはっきりと言えることが2つある。

人間が技術を信じるにしても目に見えない力の感触を信じるにしても、その信念は人間的である。
人間が物を用いて自分の力を増幅して行使しようとする気持は、物事をあきらめない意気地である。
その限界を突破しようとする行動は、真に定められた限界を探るための行動である限りはどこまでも人間性の範疇である。

逆に人間は、自分が運命から与えられた偶然を受け入れようとするとき、工夫や努力で自分のあり方をより高めようとすることをあきらめる。
それは、超えようのない限界を自分の目で見定めた上で選ぶ態度であれば謙虚さだといえるが、意気地を捨てて無条件にそうしてしまうのはかえって動物的で投げやりでもある。

技術を信じて運命を克服しようとする努力も、象徴を信じて運命を受け入れることも、それぞれが両義性をもちながら人間性の裏表を構成しあう関係にある。

技術と象徴のどちらをとるにしても重要なこと、その1つめは、何を譲らず何をあきらめるか、それを決める前にまず問題となる現実全体のあり様を確認すべきだということである。
認識できるはずの現実を部分的に見落とすと、本来感じられるはずのことが一部欠損してしまい、人間にふさわしい、また自分(の感覚の通じる場=身体)にふさわしい選択をできなくなる恐れが大きい。
現実全体を確認する方法(視点のもち方)についてはこれまでの記事で本書に沿って説明しているので、そちらを読んでほしい。

もう1つは、もしある人が何かを選んだとして上の2つの態度のどちらか片方を完全に失ったとき、つまり
・自分(人間)のできることに限界はないと確信した時
または
・自分には自身の体一つでできること以上のことは何もできないと確信した時
その人は、2つの不全感(生/死)のどちらかの感覚を否定してしまっている。
その自身の器質に逆らった信念は、もはや人間的ではない。
そう思いこんでしまった人は、たとえ外見上は他の人間と同じように生きていても、その心持ゆえに、人類がホモ・サピエンスとして人間になった時以来受け継いできたような動物身体と風物身体の結合体をもつ生き物ではなく、様態を異にする別の生き物に変わってしまっていることだろう。