地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

1 物に意味が宿る瞬間

自然地理から人文地理へと移る過程で、物に意味が宿る

人が物を文明化する、つまり「風土」と成す過程とはどんなものだろう。
実は僕らは(中学生以上なら)みんなその過程を、学校の地理の授業において目の当たりにしたことがある。

地理の授業はまず、自然環境の話から始まる。
プレートテクトニクスに始まる地球全体のこと…地層、地質、海底を含む地球表面の話、さまざまな地形。
そこで起こる自然現象のこと…地形、緯度経度、地軸の傾きなどにより、たとえば大気は1年を通じてどのように動くのかといったこと、さらに年間の降雨・気温の様相で世界はいくつかの気候帯に区分できること、など。
そのような物理的な自然条件によって、さらに世界の植生や土壌といった生態学的なレベルにも、あるパターンが現れる。

授業は地球または僕たちの国土である日本の自然条件をひととおり紹介してから、そこで営まれる人間の活動の話へと移る。
地球(国土)の自然条件や自然現象を扱う地理学は自然地理と呼ばれる。
自然地理に、そこで営まれる人間活動を加味して総合的に地理的事象として扱う地理学は人文地理と呼ばれる。

自然地理は、できる限りで対象を「風土」以前の環境、つまりその土性として扱おうとする。
できる限りで、というのは自然地理の対象も「風土」も同じような名前で呼ばれるためである。
たとえば「気温が零度以下の大気の上層で、水蒸気が結晶して、地上に降る白いもの」を人間は「雪」として把握する。
前者は単なる自然現象だが、「雪」は一種の「風土」であり、(日本語なので)日本人の風物身体である。
前者のような日常からかけ離れた説明をしていたら生徒は混乱したり退屈してしまうので、教師は雪という日常用語を使って自然地理の授業を進めざるをえない。
人間の活動や文化のベースにあるそれらは人間の活動や文化に関係なくそのようなあり様であり、地理の授業はその事実をまず生徒全員に理解させてから人文地理へと移るはずである。

地理学者のベルク氏は、地理学においては自然地理における環境の諸相が人文地理でモチーフとなり、「風土」になるという。
モチーフというフランス語は「ある芸術表現の着想やきっかけ」という意味をもち、ベルク氏は本書でこの語を動機モチーフと表記している。
地理的対象は、常に単なる自然現象であると同時に人間に何かを想起させ、人間の主体的活動を支えている。
その役割を指してベルク氏は「風土」を人間の世界の動機モチーフと呼ぶ。

p.263 これは人間の意識で把握できる動機モチーフであるとともに(わたしたちの世界の風性、lgPの意味による動機モチーフ)、大地に固有の土性(lgS)に埋め込まれた動機モチーフである。こうした動機モチーフは地名によって識別できることが多い。地名とはわたしたちの環境の知覚できる形式であると同時に、無意識的な動機モチーフであり、これがわたしたちの環境へと導き、環境に結びつけ、あるおもむきのもとで環境を整備させるのである。 この〈地文〉はある地方において、風土エクメーネの〈として〉を具体的に体現する。環境は資源、、制約、、リスク、、、アメニティ、、、、、などの形で、こうしたものの姿だけで現れて、動機モチーフとなる。スイスのヴァレー州の雪はひとつの〈地文〉だが、これはある人にとっては資源であり(たとえばスキー場の経営者だ)、ある人にとっては制約であり(たとえば牧畜業者だ)、多数の人々にとってはアメニティであり、すべての人にとって雪崩のリスクである。そしてこの関係はつねに変化してやまない。
p.257 すべての現実について同じことが言える。この〈として〉が生まれること、それは風土エクメーネの展開の歴史であり、地理である。

以前に僕は、ベルク氏は本書で2つの画期的な学説を唱えている、その1つは人間性に関することであり、もう1つは地理学が潜在的に抱えていた理論であると述べた。
最後に引用した文に見える「として」というありふれた接続詞こそがその後者を体現する、本書で「風土」と双璧を成すもう1つのキーワードである。
単なる自然/物/事象を「〇〇として」とらえた時、その瞬間に無意味だった物は関係の網の目に組み込まれて「風土」となり、その〇〇(たとえば上述のように資源、制約、リスク、アメニティなど)を意味するようになる。
後述するが、同時に人間自身もその時初めて何者か(たとえば上述のようにスキー場の経営者や牧畜業者)になる、つまりその何者か「として」何かをする動機を得る。
それは、普遍的に人間性を支える動機である。
僕らにとってあまりに当たり前で意識しがたいが、人にとってあらゆるものの意味はこの「として」において発生している。
人間は常に環境を何か(=地理・歴史的な名称)としてとらえているし、そのように物を認識する者は地球上には人間をおいて他にいない。
ものの風性と土性の橋渡しをしているその「として」は、人が「風土」状態でとらえている物事の風性と土性を区別して初めて認識できる。
そのように「として」を経て発生した意味が、その発生源から離れて新たな意味に変わることももちろん常ではあるが、その土台はあくまでも客観的な環境にある。
近代以降の地理学は、無意味な物がその意味を宿す過程を、その瞬間の前後を含めて知らず知らずのうちに直視していたのだ。