地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

2 環境はあくまでも無意味である

環境は科学者が専門に扱うべき非日常的な概念である

近代西洋の主客を分離する考え方が、現代科学の発達を推し進めた。
文化にとらわれない客観的な視点が確立されたおかげで自然科学がまず発達して自然環境の諸事物のあり様を明らかにし、それらを拠り所として社会科学もまた発達してきた。
人文地理学もむろん後者に含まれる。

自然環境はこのように、僕たちがふだん認識する「風土」の風性(コーラ)すなわち文明のすべてを科学の視点によって剥がされた事物本来の姿、「風土」の土性である。
人間の価値観を度外視した学問研究から見た環境のような対象物は、その対象の土性だけという特異な出自ゆえ、それが本来属する関係の網の目から外れた形を保ったままその学問研究の外で何かを意味することはできない。
科学者が研究対象を指すためにつける呼称は、彼らの科学的な研究の中だけで通用すべき仮の呼称であるはずであり、もちろんそこに意味は発生していない。

一方、僕たちが何か多少なりとも意味があるように感じる事物は、たとえ上述のような対象と同じ呼称で呼ばれていようと、無意識のうちに僕ら自身との関係の網の目に連なって価値づけられ、既に「風土」という状態になっている。

p.274 「自然」とはつねに、わたしたちがみずから表象するものにすぎないことを確認しておくべきだろう。わたしたちは自然を表象し、これについて考える。だから自然はつねに媒介され、社会化され、文化的なものとなる。
p.274 環境を完全に客観的なものにできると考えること、すなわち人間の自然から切り離せると考えることは、現実的なものとして環境について考えることをみずからに禁じることだ。文化についてのこうした考え方が、近代西洋の古典的なパラダイムになっている。しかしこれは主観的なものの現れを示すにすぎない。存在するにもかかわらず、その存在を無視することは、客観的なのではなく、客観主義的にすぎない。それは自然というものは、つねに自分の存在から始まって、人間存在にかかわるものであることを無視することだ。だから客観的には、つねに人間の主観性を考慮にいれる必要がある。そのために厳密な意味での科学は(科学主義的でない科学という意味だ)、〈手前にある存在〉(第17節)、純粋なな空間の中の純粋な対象、意味を失った対象しか考察することができないし、考察すべきでないのである。この抽象を超えた場所で、自然、意味、物、生について語るということは、人間の実存そのものについて語ることである。人間の実存は無視すべきでなく、認識すべきなのだ。

(実存については前掲

p.418 風土性の視点では、最初の起源からして、知覚できる世界にかかわらない科学を非難するつもりはない。だから自然科学の原理を目標としない。自然科学というものは、ガリレオの望遠鏡以来というもの、知覚されるものの彼岸を探るものだからだ。そうではなく、人間にかかわりのある知識である経済学や建築などは、こうした知とは異なるものであると主張したいのだ。人間にかかわりのある事柄は存在論的には、実存のただなかにある物の自体存在の述語(lgS/lgP)に依拠する。そして実存は、人間の主体そのものについての人間による述語(lgP/lgS)を前提とするものなのだ。

「知覚されるものの彼岸を探る」科学者の扱う対象、つまり環境とその構成要素にはまったく意味がない。
自然地理はできる限りその姿勢にならって地理的対象を扱おうとする。

しかし、そんな特殊なものを扱う専門家以外の人々はこのことを忘れがちである。
知らないはずはない。
中等教育を受けた日本人は全員、地理の前半の授業で地質や気候は人間にとって無意味で無慈悲、人間活動の都合とは別の理屈で成立していると習ったはずである。
それとも教師がそれら自然環境の理解を進めるために、地誌的な情報とばかり関連づけてまるでそれらが意味あることのように教えたというのだろうか。

世の中にはなにかを求める気持ちが強いあまり、自然の無意味さをすっかり忘れ、自分の思いつきを科学の実験結果に託そうとする人がたくさんいる。
健康食品ブームのような現象は、人々が「風土」と科学的対象を混同して、価値のつけられない物を無理やり(根拠はないので個人のもった印象などに頼って)価値づけようとする不合理な情動と、その心象を利用して商売をする輩が共に引き起こしている無限ループだ。
たとえば食品という「風土」本来の意味は、「人にバランス良く摂取されて人を養う」である。
単体で(他に摂取される食品群を含めた調理法・タイミング・量等で決まる食事バランスの総体という背景を無視して)「摂取されて人の健康に寄与する」ことのできる食品は、この世に存在しない。
たとえば、ある人の健康の維持や増進のために健康食品を求めながら本人の食生活全体に目をやろうとはしない人(多くはないが僕はたまに出会う)は、空想の産物を追っていると言っても言い過ぎにはならない。

この宇宙の中に人間が現れる以前、物には本来、意味がなかった。
物は、人間に特定の何かとして(たとえば資源として、リスクとして 等)扱われる限りにおいてしか、つまり文明化されないと、「風土」にならないと、意味をもたない。
そのような意味をもつ事物は「風土」に限られる。
「風土」が帯びる意味は、物自体のあり様(土性)を見定めようとする科学の実験をしても、その構成要素においてしか認められない。