地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

4 近代思想と科学の功罪 -2

西洋近代思想の歴史とその問題点について本書の述べるところは、はっきり言って『風土学序説』を直接読んでもらうのが一番いい。
それほど難解ではないので、もしできる人は図書館を訪ねてほしい
僕が本記事で述べることはその一部にすぎないし、僕は西洋の事情に暗いし、むしろ解釈を誤っているかもしれない。
けれども本書を直接読まない/読めない読者もいることと思うので、僕なりに本書に書かれていることをかいつまんで紹介する。

西洋近代化思想の過ち

奴隷制度の廃止が近代化の功績に数えられていることからも、前近代の共同体がそのメンバーたる資格を独自の風土性を共有する人間に限っていた(閉鎖的だった)という事実とそれが他の共同体(のメンバー)すなわち風土性と出会った際に起こった摩擦も、近代化運動の推進に一役買っていたと考えられる。

p.117 近代以前の世界の閉鎖性と比較してみると、普遍性は〈開け〉と解放を実現するものである。科学の偉大さとは、この〈開け〉のうちにある。

しかし近代思想は、人間が無意識にまた自ら進んで個人的な暮らしと社会的な暮らしの二重生活を送っていることを否定した点で、現実認識を過った。
近代思想は当時の人間の社会性の問題点を指摘し正そうとするのではなく、社会性そのものを否定したのだ。
前記事で引用したその歴史をたどる限り、無理からぬことには思えるが。
そしてまるでその誤りを埋め合わせるように空間や物神など前近代には存在しなかった概念を発明し、物が「風土」として宿していた意味の代わりに似て非なる意味をあてがった。
その「自分は自分、人は人、物は物」の世界観は、地球上の人間を数が勝負の資本と科学技術とそれらをいかに多く手に入れるかを競う個人主義に巻き込んでいった。

p.134 わたしたちは、近代がもたらした別のくびきからも解放される必要がある。このくびきは、近代の全体とその運動が、「空間」を絶対的なものとすることで、わたしたちに背負わせてきたものである。わたしたちは尺度を忘却しながら比例を重視し、地平を消滅させてきた。そしてそれによって、人間にとって枢要な絆、建築と地理学にとっても本質的な絆が断たれたのである。幾何学は、人間の事柄と具体的な拡がりの非-幾何性とともに、この絆を保つべきだったのである。地は天ではないし、人間は聖なるものではないのである。

「風土」から人間との関係性を剥ぎ取ったものを環境として認識できるようになった人間は、かつてのそれらとの関係性にとらわれず、同じ場所でしかしまるで人間を超えたものであるかのようにふるまうようになった。

一部誤っているけどとにかく効果絶大だった近代思想

人々は、近代科学を初めとする世界を人と物(環境)に分ける視点の問題解決における有効性を実感した。
そして近代化に前向きな人も懐疑的な人もみな、何事も自分と環境を分けてとらえて考えるようになってしまった。
その果てに、近代思想が解体した人と物の関係は修復し難くなってしまった。
近代思想が、前近代とはまた異なる形でなにか人間性に逆らっているらしいことに気がついた人も、人と環境は別物という前提を逃れられないため、それを解決する糸口がつかめなくなってしまい、人間の意識をよりどころにした不合理または非合理な神秘主義に走ってしまう。

そして、科学という普遍的な力を手に入れた人々が合理化を名目に諸地域(共同体)固有の文化を否定するように活動を行い、それを誰も正面きって止められない、日本のように近代化の進んだ地域で彼らに理性的に抵抗する術は個人的な姿勢表明のみという現状に至った。
(近代化の途上にある地域にはもっと別種の現状があると思う)
近代思想の誤認はその有効性と共に多くの共同体に浸透し、それらを内発的に維持してきたメンバーの社会的主体性(主体的に自分の共同体を維持しようとする考え方と行動)が失われ、共同体はその外部の近代性から攻撃されると同時に内側からも崩壊していった。
物を扱う力量ひとつがあれば世間など気にせず個人的な裁量で世を渡っていけるのだからそうすべきだとする風潮とその結果が世界を覆ってしまい、全世界が、持てる人はますます持ち持たない人は彼らに奪われるばかりとなるような格差社会を既成事実として認めるしかなくなってきている。
前にも述べたし後でより詳しく説明するが、そのように実現された社会の原理は、人間性を否定した故にその一段階前の生態系のそれ、弱肉強食に近づきつつある(戻りつつある)。

このようにして近代思想によって人間の身体性から放たれ、人間以外の物と人間の知恵と欲望において自律歩行を始めた文明もどきが、世界から地域性を駆逐しようとしている。
ポストモダニズムも大方済んだ20世紀末にはかなりたくさんの人が「明らかになにかおかしい」と気づき始めていた。

科学者たちも、自分たちが近づくことに成功した対象の本質〈土性〉、すなわちこの世界で普遍的に通用する科学的法則というのは実は絶対に人間の手に負いきれないという事実に気がつき始めた。
ではどうすればいいのか。
人間活動のあり方は資本主義経済のなすがままににまかせていていいのか(まかせないならば代わりにどのような経済を実現すべきか)。
それが地域固有の地域性を消し去ってもいいのか(だめならばどのように地域性を維持・発展させていくべきか)。
人間はいかに人間性を保とうとするべきか。
そもそも人間の人間らしさとはなにか、そして自分の自分らしさとはなにか、自分は人間としてどう生きるべきか。
一体なにを指針に世界と自分たちを律していけばいいのか(またはどのようなルールのもとに各人が自由な思想と行動を発現すべきか)。

ここに諸学問を総合する専門家、地理学者の出番とあいなったわけである。

2018年現在、諸外国の状況がどうなっているのか僕はよく知らないが、日本人は上の課題どれ1つをとっても明確な答えを持っていないと思う。
さて、ベルク氏は「風土」をふまえて何と言ったのだろうか。