地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

5 前近代、近代化、近代化以降の「風土」

(他人の知識(知覚と知性の認識)をも用いないと本人独力では認識しがたい面を含む)土性

+(本人の知覚と知性でしか認識できない)風性

=現実(認識)

前の2記事で述べた風土学の観点からみた近代思想前後の世界観の変化を、図で示してみる。

前近代

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「風土」の土性≒「風土」の認識不能な面

p.251 コーラも場所も、知性で認識される世界ではなく、知覚で感じられる世界にかかわる

前近代の文明では「風土」の人間に対する最前線にあたるその風性(コーラ)が人々の世界観を大きく左右した。
そしてその風性は人々を内面から互いに強く結びつけ、時にその力は個人の自由意思を凌駕した。
それは、近代化以降より人間の力がずっと弱く、人間が他の生物との食物連鎖で頂点に立つことが彼らの生活の優先事項の上位を占めていたためであると考えられる。

近代化

近代化と科学の発達により「風土」の基礎であるその土性が初めて人々の目に直接さらされ、直接手を触れられるようになった。

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「風土」の風性(人間の感覚の及ぶ範囲)が実際の「風土」全体から人間の主観というか精神を含む神経系へ収斂される。

p.251 逆にトポスの概念は、それが主体性の同一性の論理と一致する限りで、知覚で感じられる世界よりも、知性で認識される世界にかかわる
近代以降

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世界が主体側(人間の神経系とそれを体現する象徴的事物)と客体側(主体以外、人間自身の神経系以外の身体も含む)に分けられる。

p.124 映画には「ストップ・モーション」という技術があるが、近代性には同じような意味で、〈対象への停止〉ともいえる特徴がある。これは世界の空間化―脱時間化―客観化を示すものだ。しかしなにが停止するのだろうか―実存的な運動が停止するのである。わたしたちの存在を物の間に投げ込み、このことによって物が人間的なものになる運動、同時に物によってわたしたちの実存の具体的な形式を作り出す運動が停止するのである。逆に言うと、この〈対象への停止〉は、人間の意識を風土から抽象し、意識自身の内容の空間性からも抽象する。こうして人間の意識を絶対的に時間化―脱空間化―主体化したのである。

近代化の前後で、人間から見た物事は変わらず「風土」状態(風性を通した土性)であるのに、その理由の解釈だけが変わったことを表したかったのだが、伝わっただろうか。

物の風性(文明的な面)は、昔も今も僕らには知覚されているし、生涯決して無視できない。
しかし、もしも(視覚等五感に値する知覚をもつ)宇宙人が地球外から僕たちを観察したら、その風性は終始まったく見えずその土性にあたるものだけが見えるはずだ。
地球をその土性、つまり近代人の作った環境という概念のとおり真に客観的に、はたからの目線でとらえられるのは、理論上は文明を解さずに人間並の知覚と知能を持つような宇宙人(エイリアン)だけだ。
いや、自らエイリアンになり得た人には可能か、ただしその人にはもはや言葉は使えないはずだ。

物の土性(物質的な面)は、個人にとって今も昔も変わらず直接知覚できること(たとえば大きさ、質量 等)とできないこと(他人の知覚や認識、すなわち先人の経験知や科学的知見から明らかになっていることと、真に認識不能なもの)を含む。
物の風性(関係の網の目)も同様にあいかわらず個人にとっては他人に左右されながらも結局は本人1人の知覚と認識で成り立っている。
ただし今日の日本の常識では風性にあたるものの発生源は個人の脳内だと見なされており、そこに含まれる地理的・歴史的な背景は必須ではなく、その有無は本人独自の判断にゆだねられている。
そのように僕たちは(第六感などを発動しなくても)日常的に自身に備わった五感を基地として、その五感だけでは知覚できないものを知性や知識により認識して、生きている。