地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

2 地理学者の信条 -2

人文地理学の基本(2)

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ある物事が(その意味と共に)実現する過程

現実においてある事物に意味=おもむき(いわゆる意味)が発生する際、その事物においてその文明的な意味より下位に位置する(意味の発生を水面下で支えている)尺度は、その意味=おもむきの発生原因たる人が実存してその意味=おもむきをより上意に向かって精緻化していくための手掛かりとしての役割を果たす。

p.266 環境は人間にとっては相対的に安定しているからこそ、人間に手掛かりを提供してくれるのである。環境が不変であるというのではない。環境の慣性が人間の慣性よりも大きいだけなのである。この尺度が人間にアポリア的な大地(sol aporetique)を提供してくれる。これは濾過機とは反対の性質のものであり、これがあるからこそ、わたしたちは絶対的な世界性の無基底のうちで、無重力の状態で存在しないですむのである。このようにして社会は個人に「てごたえ」を与え、大地は社会に「てごたえ」を与える。この「てごたえ」は、通態的な手掛かりと、風土性の動機モチーフによって、わたしたちに与えられる。ある岸壁が、クライマーに手掛かりを与える(アフォードする)という例で考えよう。これは当然ながらクライマーの存在を想定する。クライマーがいなければ、だれにとっても手掛かりなどないのだ。しかしまずなによりも岩の地層、その地質構造、その風化を想定する。クライマーと岸壁というカプリングの二つの極の間に、持続の尺度と堅さの尺度が必要だ。これなしにはロック・クライミングというものもない。その意味では〈地文〉(たとえばジュネーブの近くにあるヴァラップ・デュ・サレーヴ)は、ギブソンアフォーダンスのように、不変性と動性を通態的に組み合わせるものだ〔地名ヴァラップはロック・クライミングを意味するようになった〕。

上の引用に出てくる「アフォーダンス」「アフォードする(すなわち手掛かりをもつ)」という語とそれにまつわる思想は、生態学の分野で知覚を研究し生態心理学の領域を切り拓いたジェームズ・ギブソン(1904-1979)の仕事を参照している。
ベルク氏はその他にも生命記号論を論じたジェスパー・ホフマイヤー(1942-)、彼が参照した生物学者・認知学者フランシスコ・バレーラ(1946-2001)、ハビトゥスの概念を創始した社会学ピエール・ブルデュー(1930-2002)など幅広い分野の学術的業績を参考にしながら独自の視点を構築しようとした。
僕は浅学にしてその元になった諸々の理論のことをまったく知らず、ベルク氏の論考が妥当するのか否かも判断できない。
拙ブログまたは本書を読んだ方でそちらに詳しい方がいたら、ぜひ本書のベルク氏の主張に対する批評を聞かせていただきたい。

人間は創造者ではない

前述したように人文地理学自体も西洋近代思想から影響を受けて「地域性」ではなく「空間」を測って参照し、人間の活動に完全に計測可能で普遍的なモデルをあてはめようとする学派が現れていた。
そしてその態度が共有しまわりの人にも伝播させていたのが、上の引用にあるとおり自分たちが「絶対的な世界性の無基底のうちで、無重力の状態で存在」しているかのような世界感である。
まるでこの人間にとって何でも実現可能な世界は、自分が何かすればしただけ変わるし、何もしなければそのまま良くも悪くも変わらないかのような、近代物理学の学者がイメージした宇宙空間のような所であるという世界観だ。
一方、その世界観は非現実的だ、僕らが現実に生きている世界とはそういう性質のものではない、なぜなら人間は(ほぼ常に、またほぼ無意識に)さまざまな集団的/個人的な象徴(文化)を通じて客観的にみればまったき環境にあたる事物の内にまで自分自身の感受性をはびこらせ、それら事物とまた古今の人々と部分的な同一化を図ろうとしながら、つまり歴史的かつ地理的に生きる者だから、というのがベルク氏の主張である。

p.260 風土性の視点は、人間の知覚や行動には自然の原因や因子が欠けていると主張するものではない。無基底の純粋な世界性のうちで人間の知覚や行動が始められると考えることは、人間を神のような創造者の隠喩で考えることだ。物の通態性は純粋な現象性ではないし、物に人間の主観をたんに投射したものでもない。人間が物理的な次元を把握、、できるようになるのは、この物の通態性によってであり、トポス性は世界ではなく、大地と宇宙にかかわるのである(第30節)。そしてこの通態性によって、大地と宇宙はその動機づけおいて把握される、、、、、。これは人間の動物身体への単純な物理的な効果とは異なるものである。

たとえばかつて日本の太平洋側岸に人工スキー場を建てて通年営業した人たちは、環境に大きな力を加えてベルク氏が述べるような地理学的な原則に正面から逆らった。
その人工スキー場・ザウスは、日本でスキーブームが収まると同時に廃業した。
風土学の視点は、その事実を経済的な背景だけでなく「スノースポーツという人間活動の元来要求する諸条件の方向性が、他方の千葉県の地域性全体の深いところに位置してその地域性の方向性を左右している気候と、ひいては千葉県の「風土」全体とも度を超えて合わず、それに通じながら生きる人々全員の「風土」を乱した」という、経済学より広い地理学的かつ存在論的な見地から導かれる必然性として肯定する(その視点はたとえザウスが営業を続けていたとしてもその存在意義を否定するだろう)。

ベルク氏は本書全体を通じてこのような信念を表明し、それを通態的理性と称した。
そして本書の終盤でこう述べた。

p.429 この理性はわたしたちを宇宙から抽象することなく、世界を脱人間化することがない。通態的理性は、この客観性を、近代の客観主義よりも高い位置におこうとする。そのことによって、自然であるがゆえにさらに人間的であり、文明化されているがゆえにさらに自然な文明に進もうとするのだ。

風土学の視点からザウスの存在について一言で表わすならば、それは千葉県において可能だったけれども不自然であり、なおかつ非文明的だった。