地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

3 科学の威を借りた人間

基礎研究の成果は理解されづらく忘れられやすい

一方で、世の中には文明より下の尺度(物の本質や生態系の尺度)の出来事がそれより上の尺度(文明)のあり方を定めているだとか、その逆に上の尺度が下の尺度のあり方を裏で取りしきっているとかいう主張がはびこっている。

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各尺度はより下の尺度から逸脱しない範囲内で独立して運動する(だからザウスも実現可能だった)
そういった主張は、今日通用している学識から見ればすべて偏見である。
今日そのような主張をする人は、かつて受けた地理の授業を覚えておらず(またはその授業内容を曲解しており)、せっかく近代が犠牲を払ってまでこの世を分解して解き明かしてきた世界のしくみを無視し、懐古的に近代化以前の世界観を取り戻そうとしている。
または、他人のそのような心象を利用して私腹を肥やそうとしている。

たとえばベルク氏は、野生(現生的な自然)という概念の大衆的なイメージの誤りを批判する。

p.275 たしかに近代文明はわたしたちのうちに、〈原生的な自然〉を求める構造的な欲望をかき立てた。しかしその構造そのものはごく古いものである。これは野生と野生の空間の誕生にさかのぼる。

― 誕生とはどういうことか。野生は人間性の初期の状態であり、歴史とともに次第に失われていったのではないか。野生の空間というのは、農業と人間のその他の活動によって人間化された空間によって、少しずつなくなっていったもののことではないのか。人間化の前にあったものではないか。

― とんでもない。野生と野生の空間、wildnesssとwildernessは、時期はまったく確定できないが、ほぼ歴史的な表象であり、歴史的に作り出されたものである。風土エクメーネの現実のうちでは、人々に思い込まれているのとはまったく逆の事態になっている。自然科学も人々と同じように、野生の空間は環境の初期状態であり、これを開墾などの人間の活動が次第に変えていったと考える。野生の空間はつねにあったものだが、今日は昨日よりも少なくなっているものだというわけだ。だから多くのエコロジストは、昔の状態に戻りたいと願っている。たとえばロベール・エナールは次のように言う。

 ごく長い間続いた旧石器時代の状態に戻るべきだ。その頃は人類もまだそれほど数が多くなく、豊かで、多様な自然の剰余で自由に暮らしていた。自然もごく局所的に変えただけだった。*1

ベルク氏は、僕たちの多くやエコロジストが希求するような野生(の空間)とは「ほぼ歴史的な表象であり、歴史的に作り出された」つまり文明の産物だという主張を、前近代的な社会における自然観を例にとって補足している。
詳しくは本書を読んでほしいが、どのような地域・時代における「野生」も自分たちとの関係において決まる客観的かつ相対的な概念だということである。
そしてベルク氏は「客観的視点から見た環境は無意味・無価値であるから、人間がその価値を客観(主義)的視点から論じようとするような議論は無効である」と結論づけた。

拙ブログで以前に杉並区役所職員が区の予算を使って区民のふるさと納税を非難した事例を取り上げたが、上のような大衆的な偏見はあのケースとは原因が異なる。
このような一見論理的な理屈は、近代思想の功績を部分的に利用しながらその視点から見えるはずのもののすべては受けとめずに既知の(土着の)前近代的な文明の視点から見えるもののと混用しているため、そこから導かれる現実認識を歪めている。
ベルク氏はそれを「尺度の混同」と呼ぶ。

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杉並区役所職員のケース
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大衆的な偏見

*1:Philippe LEBRETON,La Nature en crise,Paris,Sang de la Terre,1988,p.330のRobert HAINARDによる後書き。脚注342より