地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

4 有限の宇宙という世界観

科学の限界

またもう1つ重要なのは、ベルク氏は学者という宗教家や詩人とは異なる分野の専門家として、彼らのようには「宇宙の端緒」を仕事の対象として扱うことができないことを自覚している点だ。
ベルク氏は哲学を参照することで、地理学に限らず全学問に共通するその限界をはっきりと認識するに至った

p.144 宇宙の地平は、わたしたちの風景の地平ではない。しかし少なくとも宇宙の地平は、わたしたちの理性の地平であるとは言えるだろう。この地平を越えて、なにかをみることも、理性的に思考することもできないのである。そしてなによりもこれは、わたしたちの自然科学の地平である。

そして諸学問の最新の成果を精査した末、その限界が地理学の対象においてどこに位置するのか、すなわちそれが物理学の奥底に潜んでいることを確認した。
ベルク氏は地理学が依拠すべきパラダイムを転換すべき時が近づいているという。
つまり地理学が支えている、僕たちの世界観のパラダイムを転換すべき時が近づいていると。

p.143 わたしたちの存在・宇宙論はもはや、デカルトニュートンパラダイムの存在・宇宙論とは決定的に異なっている。そしていつか、ハイデガーアインシュタインパラダイムが誕生しないとは言い切れないのである。
p.143 要するに宇宙の大きさ(とその時空)は無限ではないこと、正確に表現すれば「縁」があると考えられるようになった。これは宇宙には地平があるということだ。存在論の用語では、宇宙がふたたび世俗化されたということだ。わたしたちの祖先の〈地方〉では、空間と時間は分離されていなかった。そして新しい宇宙論でも空間と時間が分離できなくなり、宇宙はふたたび世俗化されたのである。わたしたちの祖先は、日々の宇宙の捉え方において、畑の大きさを日数で数え、一日を太陽と畑での労働のリズムの同一性のうちに数えていたのである。

そのパラダイムは、形の上では近代以前のものに近い。
ただしその内容は近代の功績をふまえて新たに構築しなおされるべきである。

p.146 三世紀も前に喪失していた昔の宇宙性と出会うかのように、宇宙は宇宙天体論の尺度において、風景、生活、世界のどの側面でも、ふたたび人間の本質的な有限性に対応するようになる。
p.146 宇宙は分離するものではなく、ふたたび集まるものになった。いつか近代を超えて、そこから人間の事柄についての帰結を引き出すべきときがくるだろう。本書の結論部分が試みているのは、まさにそのことだ。

人間の認知における科学と科学外

現実において物は原初の、人間に把握しがたい「宇宙の端緒」から、複数の尺度を順に経て人間の方へ発現している。
同時に、その物を認識する人間の体も、無意識下に宇宙の端緒から同様の過程を経て物へ向かって発現している。
そしてそこに生まれる「風土」において人から人への共感が実現され、またその共感が個人に単独ではかなえ得ない人間性を実現させる
近代以前も、いま現在も、人間は常にそのように個人的・社会的に自分の有限性の内から「宇宙の端緒」へと連なる道を探っている。
それがベルク氏の主張である。