地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

6 そして風土学へ

新たな地理学が前提とする学問 = 風土学

ベルク氏がおそらく前記事のように考えると同時に提唱した新たな学問「風土学」は、諸科学の知識を地理学と和辻氏が直感的に描いた「人間存在の構造契機」に沿って組み立て直し、近代思想が解体した昔の世界観に代わる世界観を、その両方に通じるつまり普遍的な人間性のあり様を再構築する試みである。
いわば上述の地理学の原理となる人間性を解明する学問である。

もしベルク氏の仮説が正しければ、自分と環境という世界観が浸透した日本において僕らが現代だとみなしている現状は、いまだ近代化の延長にしかすぎない。
そして、もしもの話だがベルク氏の言うことが正しければ、僕たちは今度こそ近代を乗り越え、前近代の悪弊をも認め、宗教や伝統的な道徳ばかりに頼らず科学を含む学識にもとづいた見識を以て新しい時代の建設に向けて乗り出すことができる。

以前に述べたように、ベルク氏は人間性について2つの仮説を立てた。 「僕たちにとってこの世界は自分の身体と同質だ、そして○○」
1つめの仮説に続く、2つめの仮説とは何か。
そして風土学全体において人間性を支えるもう一方の仮説である地理学が潜在的に抱えてきた理論である「として」は、その学説とどのように関わるのか。

意味の本質

従来の可能主義地理学の視点からは、諸々の地理的尺度(物理レベル、生態学的レベル、文明レベルに大まかに分類できる諸相)がある地域において総合される(地誌を成す)ことにより、そこにある物が現実的に〇〇(たとえば資源、制約、アメニティ 等)として現れ、特定の意味を宿すさまが観察される。
ベルク氏は、物がそのように人文地理的な視点から観察できる物の意味のことを意味=おもむきと呼ぶ。

ちなみに人文地理的な視点とは現代日本においてごく常識的な目線である。
僕らが義務教育で地理を習うのは、適正な見識を得るためであるはずだ。

p.209 風土エクメーネの視点では基本的に、意味=おもむきには複数の基盤があると考える。意味=おもむきについて、その起源となるところ(originel)、すなわち意味=おもむきに先立つものと、意味=おもむきに固有のところ(originaire)、すなわちその基盤となり、それを支えるものという視点から考えようとするからだ。意味=おもむきの第一の基盤は純粋に物理的な基盤で、宇宙の展開である。第二の基盤は、生物圏の展開である。第三の基盤は風土エクメーネの展開である。第一の基盤での意味=おもむきとは、時間の流れであると同時に、空間の方位である。これによって、物のひとつの状態が別の状態へと進むのであり、その逆ではないことが定められる。たとえば重力を例にとって考えてみよう。山脈が浸食され、杉が上に向かってのび、筋肉が腕に重みを与えるのは、この重力の方向=おもむきによるものである。逆のことを主張する人はいないだろう。第二の基盤での意味=おもむきとは、生命をもつ有機体が、自分が存在する物の状態をどのように認識するかである。たとえば人間は耳の内耳によって、垂直方向との位置関係を認識することができる。この基盤において、竜舌蘭の花茎は高みに向かって真っ直ぐに伸びることができるのである。第三の基盤での意味=おもむきとは、物が存在しないところで、表象によって物の状態を認識する方法である。たとえば、さきの文章の「高みに向かって真っ直ぐに伸びる」という15文字は、竜舌蘭が存在しない場所で、龍舌蘭のある状態を表象する。表象については、さまざまなまったく新しい問題を提起することができるが、風土エクメーネの観点からは、意味=おもむきの最初の三つの側面を基盤とせざるをえないのである。

「第二の基盤での意味=おもむきとは、生命をもつ有機体が、自分が存在する物の状態をどのように認識するかである」
「第三の基盤での意味=おもむきとは、物が存在しないところで、表象によって物の状態を認識する方法である」
このようにベルク氏の提唱する新しい地理学は、その人文地理的な意味を客観的に観察できる対象ではなく、それを認識している認識者、すなわちそれが発生している地域の住民の認識において観察すべき対象であるととらえる。
「として」は常に暗黙のうちに「誰かにとって〇〇として」だからだ。
そしてこの地理学者は、そのような「ある人が自分のいる場において自分に関係する物から受け取る意味」とは、「意味」というより一般的な概念の本質にあたるのではないか、と自分の専門分野を超えて考えたのである。