地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

7 意味=おもむきとは何か -1

キーワードは「として」だ

だいぶ脱線したが、話を地理の授業に戻そう。

ある人が物を「〇〇として」把握するとき、元来は意味などもたない物が、その人の風物身体「風土」となってある特定の意味を宿す。
物は原初の状態、すなわち人間に把握しがたい「宇宙の端緒」から、物理的な次元→生態学的な次元→文明の次元という過程を経てその人の方へとある意味を発する。
なぜ意味が発生するのか。
相手の人間から必要とされるからだ。

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人が箸を使う(箸と通態する)の図

人間がいてもいなくても物はそこにある。
しかし人間は物を「風土」にして、たとえば2本の棒を「箸として」使う。
ベルク氏は『風土学序説』でこのことを「人と物が通態する」と表現する。

意味と言葉(記号)の関係

意味は、物の名など、物の方ではなく言葉の方に宿っているのではないかと考える人もいると思う。
言霊ことだまという概念に表されるように、言葉に出した意味はなにか実行力のようなものをもっているし、本質めいてもいる。
そのような意見に対しベルク氏は本書で、事実は「まず物が「風土」となり意味が展開した後に、言葉がその意味の器として現れる」のだと強調している。

p.205 意味=おもむきは言語に先立ち、言語がもはや存在しないところでも存在し続ける。意味=おもむきの風土エクメーネ的なアプローチの基礎となり、風土エクメーネの関係の考え方そのものの基礎となるのは、この前提だ。この関係が展開されること、それは特定の方向に向かって意味=おもむきが展開されることである。

言語はむろん、下の引用にもある「記号」の一種である。
ベルク氏は本書で、物を表す記号を意味そのものだとみなす行為を「シニフィアンの物神崇拝」(p.53)と呼び激しく批判している。

p.206 意味=おもむきは人間の象徴的な機能の展開を含むものだ。…

しかし意味=おもむきはわたしたちの技術的な機能の展開をも含むものであり、わたしたちの〈肉〉のうちに受肉され、特定の生態系のうちに根づいている。この生態系は動的なものではあるが、〈執着する〉ものでもある。わたしたちは生物圏の物理的な限界の彼方までそれを延長することはできるが、それなしには生きることができない。

この視点からみると、意味=おもむきの問題を正しく提起するためには、意味=おもむきが生まれる枠組み(そのコーラ)において、その風土エクメーネの関係の視点から検討しなければならない。言語だけから(そのトポスから)これを決定するのは妥当ではない。その理由ははっきりしている。これは現実を抽象的なものに代えることであり、物の意味=おもむきに、言語学的な記号のために作り出された意味の分析の技術を適用することだからだ。この方法は偏っているだけではない。原則そのものが誤っているのである。これは地図を土地そのものと思い込むことだからだ。物の記号は物ではない。だからどんな記号学も物を説明することはできない。ところが物には意味=おもむきがあるのである。

しかしこうした原則を唐突に適用してしまうと、逆向きの還元を実行することになる。重要なのは、記号論記号学が、記号を知るだけでなく、物を知る上でも大きな貢献をしたという自明なことを否定することではない。風土エクメーネの関係において、すなわち現実において、物がつねに必然的で象徴的なものであり、記号の体系を取り込むのはたしかだからだ。それよりも重要なのは、物が記号と異なるものであるのは必然的なことであり、物は記号に先立ち、その基礎にあるという視点を離れないことだ。物は記号の下にあり、記号に先立つのであり、これを記号によって包摂することはできない。意味=おもむきの起源にあるもの、意味=おもむきだけにあるものは、記号論には還元できないからである。そして記号論の存在と意味は、意味=おもむきが展開するもののうちから生まれる。これは風土エクメーネが生物圏のあとで生まれ、これを前提とするのであり、その逆ではないのと同じである。生物圏と惑星についても同じことがいえる。生物圏から風土エクメーネへと向かう意味=おもむきがあるので、その逆には向かわない。

物事を始める時に「形から入る」ことの多い僕たち日本人が重視する言葉づかいや場の雰囲気などには、確かにある意味合いがある。
しかし言葉や雰囲気といったものは、もしも本物の物と人間(何かの本性と誰かの本性)の相互関係に裏付けられずにそれら単体で存在する(たとえば言葉が発話される、雰囲気が発せられる 等)場合、本物の意味をもつとは言えないのだとベルク氏は主張する。

p.227 象徴性がもたらすのは、それ以前と同じ尺度では計れないほど自由な意味=おもむきを作り出す能力である。しかしこれが意味=おもむきを作り出すのではない。歴史というアリアドネの糸によって、そしてわたしたちのだれもがもつ動物身体によって、この能力は宇宙の端緒という計りがたいほどの暗闇から、原初的にそして本源的に、これを受け取るのである。

ありとあらゆる意味を人の思考とそこから発せられる言葉や態度だけに求め、その他の事物と区別しようとする考え方は、現在の日本社会においてその限界まで極まっているように見える。
言語や記号といった語より具体的に、「名前」と言った方が理解しやすいだろうか。
今日、初見で用途のわからない物や、初めて会う予定の人について、僕らはその名前さえ知ることができれば、検索してその意味(どのような物/人か、手に入れる価値のある物か、会う価値のある人か、すなわち自分にとってのその物や人の存在意義)を把握できると考えている。
2016年に公開され大ヒットしたアニメ映画『君の名は。』(深海誠監督)は、そのような思考パターンの極まりであると思う。
この映画は、日本に実在する美しいモチーフを用いながら前述の富士登山にも似た日本の若者の郷愁を表現した。
この映画の重要なシーンでは、2人の主人公をつなぐ役割を果たす「物」があっさりとその役割を終えると同時に2人は互いの「名」を教え合おうとして事情によりそれがかなわず、ただ記憶から互いへの「思い」がほとんどまるごと失われていくことに感じ入る。
これがもし昭和以前の映画ならばきっと、そのように分断される2人の間は将来にわたって何か「物」や「場」が絆となって完璧にではなくとも実感を伴ってつなぎ続けていくのだと語られたことだろうが、この映画の2人はあくまでも直接お互い本人とそれを表す「名」を追い求める。
この映画と同様に主人公の名をモチーフにしたアニメ映画『千と千尋の神隠し』(スタジオジブリ、2001)の場合、その名は主人公とその名の由来を結ぶ絆として劇中で語られたが、『君の名は。』の主人公の名の由来は明確に語られず(なにごとかを暗示してはいるのかもしれないが)劇中でその名は本人だけを指し示す。
ただし劇中歌の方は歌詞の中で身体という語など様々な表現を通して人間の本質が一時点の本人の体に収まりきらないことを表明しており、映画内の他の表現と併せてそれらは少し映画の脚本と趣を異にすると僕は感じたが。
非難がましい論調になってしまったが、アニメ映画の主たる役割は娯楽であるし、もしこの映画の目指すところが現実味にあふれたファンタジーだったならばそれは成功したと思う。
後述するが本物の現実感リアリティーとは必ず人間個人の体だけでなく認識からもあふれ出るものであり、『君の名は。』はそのことははっきりと表現していた。

ベルク氏は人間の言葉や主観が物の意味の決定権を握るのではない、意味はすべて人間と物の関係(人間本人と物自体とその間の運動)において随時発生しているのだと主張している。
それはまるで電球の光が電気が流れる過程で光るように、その関係上に発生する。
言葉(名前)が意味を体現すると考えることを、ベルク氏は「地図を土地そのものと思い込むこと」だと表現したが、僕なら紙に描かれた光る電球の絵で辺りを照らそうとするのと同じことだと言いたい。
また世の中には実際の事物を表さず表面的であることに存在意義のある意味も確かに多数存在するが、それらは地理学および実存哲学に挟まれた審級にある風土学から問われるべき対象ではない。
本書の問う意味は現実において、おもむきという語に示されるとおり特定の方向性をそなえ、また上で引用したとおりその方向性に沿って展開される動的なものである。

p.238 意味=おもむきは宇宙を土台とし、人間のそれぞれの身体を動かす生を通過し、この生を可能とする生物圏のうちにあることをふたたび指摘しておきたい。意味=おもむきのこの感覚において、わたしたちは物とかかわることができる。人間の身体の動物性も風土性も、暗黙のうちにこの基盤を前提としているのであり、これは原初的で生まれつきのものである。
p.238 〈人間になる〉こと、〈言葉になる〉こと、〈物になる〉ことが〈全体として成長する〉のである。この〈なる〉ことが数千世紀も続いた後に、四千ほどの自然言語が生まれ、それがこの2000年というときにあたって、人類の遺産を形成する。

物が意味をもつという運動において、言語はその運動自体を保存する役割を担う。
通態という過程において随時発生してまた消える意味は、言語という形を得て固定され保存されることで複数の人間同士で共有されるようになる他、その意味するところを強化されたり、より精緻に検証を加えられたりすることが可能になる。

p.92 中国の詩人たちについて、わずかながら検討してきたことからも、言語はなんらかの意味=おもむきのうちに手を加えることができる道具であることが明らかになってきた。これに手を加えることは、世界を解体するたあめに役立つことがある。また反対に中国の場合のように、世界を強めることで、現象性を絶対的なものにすることにも役立つ。詩とは、中国の世界がみずからを絶対的なもののうちに措定しようとする傾向のひとつの側面にすぎないのだ(その模範的な側面といっていいだろうが)。
p.254 〈として〉は言語に先立つ。わたしたちの身体の動物性に根差しているからである。わたしたちはこの土台の上に、言語によって、微細な意味=おもむきを作りだすのである。

ではベルク氏のいう意味=おもむきとは、日本語の名詞「意味」と実際どのように異なるのだろうか。