地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

8 意味=おもむきとは何か -2

人がものに意味を感じるとはそれを「○○らしくとらえる」ということではないか

ベルク氏は『風土学序説』の冒頭から意味=おもむきという語を使う。

p.12 この書物が語っているのは…わたしたちの世界を生み出し、この世界についてわたしたちに語りかける言葉の意味=おもむきを生み出す運動について、そしてその反対に、言葉と、書かれたことばにおいてしか、意味=おもむきを探さないことの空しさについてである。

本書全体を通してこの「意味=おもむき」の意味するところは解説されない。
上の文章を読む限りでは、意味=おもむきは日本語の「意味」と同義だと考えられる。
この意味=おもむきとは、日本語の「意味」+αを表現しているのだろうか。

おもむきという日本語には赴きと趣があるが、本書で使われている「おもむき」は全てひらがなで表記されている。
趣くと赴くは両方「ある方向に向かって行く」という意味をもち、ベルク氏がその意味をもってこの日本語を「意味」へと接続したのは明らかだ。

p.205 意味=おもむきは言語に先立ち、言語がもはや存在しないところでも存在し続ける。意味=おもむきの風土エクメーネ的なアプローチの基礎となり、風土エクメーネの関係の考え方そのものの基礎となるのは、この前提だ。この関係が展開されること、それは特定の方向に向かって意味=おもむきが展開されることである。

「この関係が展開されること」とは前述の「人と物の通態」であり、その具体的な様態は「技術体系と象徴体系の展開」である。
だからこの「意味=おもむき」とは
意味
=ある一定の方向性(ある人からある物へ、またその物からその人へ)をそなえた、技術と象徴の展開
=その方向性をそなえた、人間と環境の通じ合い
という意味をもつと考えられる。

しかし僕はなんだかまだ納得できなかった。
ベルク氏は僕たちの現実つまり日常のことについて話しているのだから、「風土」が現実のトリセツであったように、「人間の構造契機」が人間性の原点であったように、「意味=おもむき」もより日常的な言葉で言い換えられないか、本書を読んで考えた。
ある物を「○○として」みた時に、何が起きるか。

p.253 風性と土性の間には、二律背反的な対立があるようにみえるが、実は現実的な統一がみられる。これは動的な統一であり、人間の実存の構造契機における風土ミリューの動性なのである。ここで物とは、物に〈なる〉ことである。物はたんなるトポスに凝固することなく、つねにあるおもむきの動きのうちに組み込まれ、いわば「物になること」である(これは生成=誕生としての相対的な存在というプラトン的なイメージに近い)。この風性は、その外ー存にほかならない。物「としての」存在の展開である。

実際に、風土においては物は、人間が把握する条件のうちで〈として〉によって実存する。これはたんなる世界性(述語論理)ではない。物がそれ自体で、物であるものを想定するからである(主語論理)。物は純粋な自体存在の無ー意味において実存することはない。〈自体存在〉とは、その定義からして、わたしたちには決して把握できないものだからだ。わたしたちは物をともかく把握するが、これを把握しているという事実そのものが示すのは、わたしたちの世界の条件のうちで、物を必然的に「述語づけ」ているということである。

この〈として〉は言語に先立つ。わたしたちの身体の動物性に根差しているからである。わたしたちはこの土台の上に、言語によって、微細な意味=おもむきを作りだすのである。

言葉や記号は前述のとおり意味を補強したり加工したりする手段であるが、それらが運ぶ意味の源はあくまでも上のような、人が物を把握するプロセスの中にある。

たとえば、僕が庭で手紙を書こうとしている、とする。
本当は部屋に入って本物の机に向かいたいのだけど、事情のためにそれはできない、とする。
僕はそこにある大きな天然石を「机として」その上で手紙を書こうかと思う。
石は安定しているけど、ちょっとデコボコしていて筆がひっかかりそうだ。
もっと適した物はないか。
池の水面はここで何よりも平らだけど、「机として」は使えない。
つまり水を「机として」みなそうなんてナンセンスだ、意味をなさない。

だからもっと平らでかつ安定した物…たとえばそこの石灯籠の笠を「机として」書く方が高さもちょうどいいし、まだましだろうか。

上で述べた天然石、池の水、石灯籠の笠それぞれを僕が「机として」仮定した際、それぞれにおいて異なる意味=おもむきが発生している。
そして僕は、僕が石や水などそれぞれと結ぶ関係、すなわちその意味=おもむきを比べ、その適否を見極めようとした。
机を机として使うのは当たり前なのでふだん見過ごしてしまうが、これってもしかして。

石は机として使えるか。それとも石灯籠の笠を机として使ったらどうか。
→ 石の机らしさと石灯籠の机らしさはどちらの方が上か。
→ 石と石灯籠のどちらが机らしいか。
(そして池は机らしくない)
ということではないか。

つまりおもむきとは、ある物の「〇〇らしさ」ではないか。
たとえば富士山の意味=おもむきといったらそれは富士山(客観的にはたんなる地面の隆起)の「富士山らしさ」(日本人がもつイメージ、日本人以外がもつイメージ、個人それぞれがもつイメージ etc.)のことなのではないか。
…いや、富士山のおもむきと言ったら、それはずばり富士山の富士山らしいたたずまいのことを指すか。
最初からベルク氏は日本語を適切に使っていただけではないか。
おもむきのような雅な言葉に親しんでいない僕が、その日本語本来の意味に気がつかなかっただけのようだ。

ベルク氏は本書において「らしさ」という言葉をキーワードに据えてはいないが、日本庭園における「みたて」という技法を「風土」が必ずそなえるその方向性(意味=おもむき)を説明するために持ち出している。
つまり、意味とは端的に、人が自分とは独立して(客観的に)存在する対象物を自分にとって(主観的に)何か価値的なものとして見立てる(とらえる/仮定する)ことであると明言している。

p.310 風土エクメーネの基本となる原則は、として、、、であり、第三〇節でみたように、この「として」によって、物に固有の論理(lgS)が、わたしたちに物が現れる論理(lgP)と組み合わされる。すべての庭園は多少はその隠喩であり、正確には生態エコ象徴シンボルである。庭の〈いのち〉である植栽は本質的に、生態学的な秩序(lgS)に従うからである。しかし多くの庭園ではさらに一歩を進める。庭園はこの〈として〉を組織化するのである。たとえば日本では、みたてという語でこれを明示的に示している。みたてとは「まなざしによって作り出す」ことであり、として、、、みることだ。
引用文の後に続く文章は一見するとごく専門的な(たとえば文化的に優れた点をもつ庭園にだけ適用されるような)文化論にも読めるが、僕は上で述べたとおりそれは僕らのありとあらゆる活動で通じる話なのだと思う。
僕らの日常は僕らが考えている以上に深く自分たちの精神に左右された現象であり、また僕らの精神は僕らが考えている以上に広く自分の属する共同体の文化に浸されているのだ。