地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

9 意味=おもむきとは何か -3

何かとして →← 何者かとして

何かを「〇として」扱う人間には、「〇」にふさわしい態度や行動が求められる。
たとえば日本のシンボルであり世界遺産たる富士山のおもむきに、ゴミは似つかわしくない。
富士山に登った人は、富士山の登山者「として」自分の出すゴミは持ち帰るべきである。

他にももっと身近なもの…たとえばわりばしはどうだろう。
僕はこれを材料としてわりばし鉄砲を作ることができる。
しかしひとたびこれを割って「箸として」使うことになったら、使い終わるまではこれを落としたり踏んだり、これで人を指したりする行為はタブーにあたる。
日本には「箸はこうこうこのように扱うべき物」ととらえる文化があり、僕は「日本人として」箸を「そのような物として」みなしている。
つまり、人が物を何か「として」扱うということは同時に当の本人が何者か「として」ふるまうことを意味する。
物を何からしく扱うことで人間は何者からしくなる、その逆もしかり、ということである。

意味=おもむきは、人のふるまいにも人による物の扱いにも先だって参照されるべき文明すなわち「風土」の方向性である

意味=おもむきは、人と物の間に発生する技術と象徴の展開にも先だって、本人と物自体の前にある手掛かりとして現れる。

p.266 風土性の概念は和辻から受け継いだものだが、通態性という概念には、ジェームズ・ギブソンアフォーダンスという概念によって導かれた。アフォーダンスとは、環境が知覚に提供する(アフォードする)手掛かりであり、同時に知覚がこの手掛かりについて、またはこの手掛かりとともに、手掛かりを持つ(アフォードする)ことができる能力を示す。だからこの手掛かりとは相対的なものである。動物や人間存在と環境の関係を受肉しているのは、まさにこうした手掛かりである。この手掛かりはほんらいの意味で主観的なものではなく、ほんらいの意味で客観的なものでもない。しかしこの手掛かりは現象にすぎないものではない。まともに物理的な現実性をそなえているのである。こうして手掛かりは、同時に物にそなわる不変なものであり、わたしたちがもはや物を知覚しなくなっても、存在し続ける。

物は、その手掛かりによって述語づけられる(その物自体を含む何かの一種としてとらえられる)。
同時に人間も、その手掛かりによって述語づけられる(ある価値観を共有する集団の一員としてとらえる)。
それらの述語づけにもとづいた人間活動が、「風土」がある意味=おもむきをもって展開するということである。

よって、ベルク氏は意味=おもむきという語で前記事で述べた
「意味、すなわち一定の方向性(ある人からある物へ、またその物からその人へ)をそなえた技術と象徴の展開」
ということを表現すると同時に
「意味は、ある物とそれを知覚する人とが、共にしている背景に染まること(=ある物とある人がその背景にふさわしいあり方になること)において発生している」
ということを表現しようとしていると思われる。
この場とは現実の背景、風土の風性、風土ミリューだろう。
ある物の真の意味は、人と物が共に連なる「風土」のおもむきによって定められる。

すなわち、人と物がある場にいる際、「その物が何であるか」と「人が何者であるか」に先立ってその両方を定める(述語づける)意味=おもむきがその場には既にそなわっているということだ。 その場とは、TPO(Time Place Ocassion)のような意味合いをもつ具体的な場であり、当該の物と人が共にしている具体的な背景で構成されている。
その場は、当該の物と人自身よりも長い歴史をもつ故に両者を包み両者に意味を授けることができる。
ただし、その場は時を経て存続し続けることにより本人をも取り込み(本人からの働きかけにより変質し)、本人はまた他者に対する意味=おもむきそのもの(場)の一部にもなる。

人と物が接触するたびに必ず発生している意味=おもむきの中でも、ある地域に住む人間集団とその地の事物の間で起こっている、その地にそなわる集団的な意味=おもむきの総体をベルク氏はあの独特な呼称で呼んだ。

p.262 この関係のうちで、原因と根拠と要因は複雑な動機づけのもとで、たがいに混ざり合い、対応し合っている。これらは形式であると同時に理由であり、その風土ミリューの風土性そのものである。 このようにして世界の詩が組み立てられる。わたしたちはこの世界の詩を意識して風景のうちに読みこむことができるが、同時にこの詩は、わたしたちの知らないところで、わたしたちの身体の底で、生物圏において、みずから歌声をあげているのである。ギリシアとラテンの古典からわたしたちに伝えられているこの表現を、わたしは風土性の同義語と解釈している。この詩が語るのは地の言葉、地文ジエオグラムである。

すなわちある人を浸す風土性あるいは世界の詩が、その人のもてるすべての「風土」を叙述しながら、その人が何者であるかをも叙述している。
世界の詩は、あらゆる意味の源にあたる。

以前ベルク氏の仮説の1つ目として「人間とは、人間として覚醒しているときは常に、自分の認識する物(環境)すべてを、あたかも自分の体であるかのように感じ、そのように扱おうとする生き物だ。」と述べた。
その際に「自分の認識する物(環境)」は「僕たちが名前で呼べる物すべて」だと述べたが、これはより正確にいうと「〇〇として」とらえる物、ということだったのだ。
つまり「人間として覚醒しているとき」とは、人が「誰それとして」何かを「〇〇として」とらえているとき、という意味だ。
人間は常に「として」で無意識に己の風土性を発揮している。
「として」は人間を動機づけ、人間を動物を超えるものにさせる。

f:id:appalaried:20180321212307p:plain
ヒト「…」と物
f:id:appalaried:20180321212304p:plain
ヒト「スキー場として」「鉛筆として」「ロケットとして」→ 人間
人間が認識するすべての物がある「風土」として「おもむき」すなわち「〇〇らしさ」をそなえると同時に、本人が「□□らしく」なっていく。
そうして人の体はまわりの事物と背景を共にして連なり、ある一つの現実、統一感のある現実を生みだしている。

このおもむきという運動のことはなんとなくわかった。
では、この運動の原動力は何であったか。
人間の有限性の自覚と、それを克服しようとする主体的な行動である。

この無意識の志向性はかつて、共同体における内発的な危機管理という形で具現化されていた。
なぜなら、人間と物をそれぞれ方向づけ意味づける風土性は、ある社会の文明の尺度だけではなく、それを下支えする他の2つの尺度を含む多層を貫いて展開しているからである。