地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

1 みんなで生きる自由と多様性の容認 -1

田舎の前近代的暮らしの良し悪し

人間の有限性の自覚とそれを克服しようとする主体的な行動はかつて、共同体における内発的な危機管理という形で具現化されていた。

近代がやってくる前、共同体はどのようなルールでもって運営されていたのか。
これから3記事にわたって述べることは、僕の体験を元にし、その風習が残っている日本の田舎の農村を例にとっている。
しかしそのようなルールは今日、農村以外の日本の共同体たとえば漁村や都市にだって必ずや息づいていると思う。
農村はあくまでも一例にすぎないことを心に留めておいてほしい。

今日でもいわゆる世間が有効に機能している日本の農村の共同体には、風物身体を共有するメンバー全員を生かそうとするその働きにより、いちじるしく生活水準の低い人が1人もいない
共同体のメンバーがお互いを必要とすると同時に気遣い、生活の困難を共に乗り越えるべく助け合うからだ。

たとえば町会の会合で町会長が
「しばらく黒田のじいさん見てないな。薪ストーブを使うのをやめたから、煙で家にいるのか確認することもできないし」
と言えば他の町会幹部が
碓井のじいさんがちょくちょく家に様子見に行ってて元気だそうだけど、さすがに高齢で屋根の雪を降ろせないみたいだ」
と答え
「じゃ、みんなで行くか」
となって機械と人を動員することになる(機械は共有の場合もあるが、個人所有のものを使う場合もある。機械の燃料代など必要経費は町会が負担する。)。
つまりこの例の場合、本人に確認もとらずに共同体の仲間が本人の家の維持作業に出向く。
もちろん確認をとる必要があることならば確認してから行動に移されるが、この場合は屋外作業であることと除雪されることを嫌がる人はいないため、確認の必要なしと判断されることが多々ある。
町会の活動なので基本的に町会が負担や責任を負っているのだが、実際に働く人も時間を融通したり機械を提供したりと自主的に担い手としての責を負っている。
重要な点は、今は元気な人たちが、いずれは自分もみんなの世話になるのだからという気持ちを持っているから前向きに話が進み、わざわざ都合をつけるなどして行動に移されるという点だ。
世話になっている方も過去に他者を助けていたり、また町会の他の活動で別の役割を果たすことで、結果的にその町会の持ちつ持たれるの関係が全体的・通時的に保たれている。

自分がいつどこにいるのか、親しい人はともかくそれほど親しくない人にまで知れ渡っているなんて、見方によってはプライバシー侵害だ。
また、何か問題が起きるたびに元気だったり物財を多く持つ人ほどよけいに協力を求められがちなのはちょっとどうかとも受け取れる。
世間が有効に機能している共同体では、比較的生活水準の高い人がその富を自発的に他のメンバーと共有しようとするので、その富の集積はゆるやかに抑えられる。
しかしこの例のような気遣いが、力量的に限られたメンバーで共同体を健全に維持するためには欠かせないのだ。
その原動力はお互い様の精神だ。

町会のような集団レベルだけでなく個人レベルにおいてもこの考え方が通用する。
自然の四季に従った一次産業を営む農家は、まわりの農家へも非・農家人へも日頃からおすそ分けを惜しまない。
自分の生産物はもちろん、間伐した木を薪ストーブの燃料として使えるよう運んでやったり、他にも家屋や車のことなど生活のいろいろな場面でよろずの技術に通じた「百姓」としてその手腕を惜しみなく披露する。
それは裏返せば、農繁期にはその相手が惜しみなく手助けしてくれることをあてにしているのだ。
その逆も然り。
そのように世話になった人は相手に、客観的にみて価値が等しいかよりも自分の気持ちを相手に伝えることを主眼においてお礼をする。
気持ちや絆は、そのように効力をもつ物やそれに裏づけられた言葉を介さなければ、どれほど感受性の豊かな人間でも知覚し得ない。

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物をあげればいいのかと言えばそうではないけれど

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ほんとうに「気持ちだけ」のお礼には現実的な効力がない

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お礼には「気持ち」を伝える「物」の2要素が欠かせない

人間同士で意味のある交流を成立させるためには物の風性(コト)と土性(モノ)の両面を押さえることが欠かせないのである。

田舎の住民は他人の陰口も人一倍叩く。
しかし、気にいらない人と面と向かって口論し完全な仲たがいにまで至る頻度は、都会の住民よりも少ないように感じる。
それは、共同体内の人同士のつながりを(その背景にある物財や恩義すなわち古今の関係者との関係を含めて)実務的な効力をもつ実体としてとらえ、不満があろうととにかく切らないようにしよう、維持しようと考えているからだと思う。
お互い様の精神その他の世間のルールが、そのメンバーに感情的・刹那的に行動することを抑えさせているようにみえる。
いや、ルールがそうさせているのではなく、メンバーそれぞれが過去に他人に世話になった記憶を省み、将来にわたって彼らと支え合って暮らそうとする覚悟をもっているから、自分たちのルールを守ることを自分の感情の発露に優先させようという態度を保っているのだと思う。
風土学の視点からみると、それは自身の動物身体と共に風物身体をも感受しているという態度にあたる。
そのような視野をもつ主体たちの共同体だからこそ、たとえ共同体全体に有害とみなされ「村八分」にされた人でも、「二分(火事と葬儀)」だけはなお面倒をみようと請けあっているのだ。
都会ならばそんなこと、身内を除いて誰に望むことができるだろうか?

世間は、メンバー各自が今共にいる仲間+過去そこにいた人々+未来の仲間をすべて実質的な戦力をもつメンバーとみなして主体的に行動するからこそ、内発的に維持され続け得る。
このようなつながりにおいては誰もが共同体の一員として、その活動に役を得て参加する。
役には重要な役から村人Aのような役まで様々あるが、全員が自分の役におけるその主として、すなわち主体的な判断においてふるまう。
このつながりは当人の価値観によって、気持ちよい充実した関係とも、しがらみに縛られた窮屈で押しつけがましい関係とも感じられるだろう。
自分の生業以外、生活を維持するのに必要な活動のほとんどを役所、事業者、商店、司法などが提供するサービスにゆだねて暮らしている生まれながらの都市生活者から見れば、そういったサービスを(非常に専門的な技術を要するものは除いて)自分たちで担おうとする、しかもプライバシーの壁をとても低く設定してそうする姿勢は、カルチャーショックに値するはずだ。