地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

2 みんなで生きる自由と多様性の容認 -2

世間の本質

人間は他人と諸物(本書いわく風物身体)なしでは自分という人間存在の半身にすぎない(すなわち自分らしく生きることはできない)。
田舎のいわゆる世間で過去に縛られ将来にわたって頼り頼られながら生きることを嫌う人は、だからといって独力で生きることもできないので、個人的に生きられる個人主義社会が実現されている都市へ向かう。
その原動力は西洋近代思想の原動力にも通じる「他人は他人、自分は自分」「だからもっと〇〇したい」という個人的な自由を行使したがる気持ちだ。
そのようなエゴイズムは本人から発するのだが、世間の方にもそれを誘発するような前近代的な悪弊、必要以上に個人の才覚の発現を抑え世間を結ぶ「空気」を保とうとする風潮が強すぎる場合がある。
そのような共同体の雰囲気は、以前に述べたとおり時に人の命を奪うほどの力をもつことさえある。

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「風土」の風性が人間活動を(生の)必要を超えて縛っていることもある

そのような問題は、世間が構成員全員の半身として本来的にもつ「生のおもむき」すなわち多様性を受容する姿勢から遊離したために起こる。
そのような問題は世間が本来結成された原点からはずれており、どちらかといえば例外に属する。

p.367 生のおもむきとは、偶然的な破壊を除くと、多様性に向かうものだ

実際、日本の活力を保った村落を訪ねてみると、共同体のルールにおいては右に倣えで同質でいようとするものの、個人ごとは実に多種多様、良くも悪くもディバーシティあふれるメンバーばかりに見える。
活力のある世間的村落は、陰口は陰ながらも横行しながら、同時に誰も他人の生き方をまっこうから否定することはなく、つまりメンバーが本音と建て前を使い分けながら運営されている。

この多様性を容認しようとする姿勢は、あくまでもその共同体内においてだけ保たれる。
「風土」のルールは共同体のメンバーの生を守ることを目指しているので、それが共同体外の人間のことを排除しようとする場合は多々ある。
だから田舎の世間は排他的である。
こちらは世間を含む風土ミリュー全般の本質的な問題である。

メンバーが現実的な態度をとっていれば、その共同体は時代を超えて存続する

「そんなことはない。田舎では出る杭は打たれるし、必要の度を超えて互いを縛り合おうとする」と言う人がいるかもしれない。
昨今日本の村落の大半が活力を失ったのは、高度成長期以来の国政により異常な大人数が都市部へ流出したためである。
そういった村落のうち人口を回復できず限界集落化してしまっているところには、その要因として、もちろんUターンやIターンと呼ばれる良い外因の乏しさによるところはある。
しかしまた、村落に住み続けてきた/新たに住もうとする住民が、世間本来の目指すところ(原点)を忘れて/知らずにそれを非本来的に運営しようとするために、メンバーの多様性を肯定できない、といった内発的な要因も絡んでいる可能性がある。

健全に運営されている共同体では、なにか問題が起こると、それが何事であっても、必ずしも速やかにではないかもしれないが、住民が主体的かつ論理的に対処しようとする
たとえば田舎に住んで夏に自然に伸びる雑草を放置していると、まわりの住民から苦情がくる。
夏の草は刈ってもすぐまた生えるし、庭仕事を好まない人からみるとその手入れは徒労感の多い作業である。
雑草を生やしていると辺りに虫が増えるなどと言う人がいるが、もしその家の周囲が山林に囲まれていたりすればこのような客観的な理由は気休めにも思え、人に面倒な作業をさせる動機を与える論拠として不十分である。
風土学や断舎離のような視点から俯瞰してみれば自分の敷地(そして集落の一部)を整然とした状態に保つことは自分と仲間の心身を健全に保つも同然の所作であるが、今日の日本においてそのような価値観は多数派を占めてはいないのでそのような視点をもつことは少々浮世離れしていると受け取られがちであり、説得力に欠けるかもしれない。
それでもただ、苦情を呈する人が上のような俯瞰した視点にも通じる後先とまわりを視野に入れた論理をもって自分(たち)の感じていることを伝え、相手と対話できさえすれば、そこに世間のルールは通用し守られる。
ある事物について、後先とまわりを視野に入れて自分の感じることを話したり他人の感じることを考えるとはつまり、現実的な話し合いをするということである。
森林に囲まれた集落で夏に家のまわりを手入れしないと、森林と道と住居の境界すら見分けがたくなってしまう。
舗装でおおわれた都会の感覚で農村に移り住んだ人は、初めて迎える夏に、秩序とは人間が保つものだ、それはまたなんと居心地よいものだったのかと痛感することになるのだ。
しかし、もしも苦情を言う側か言われる側が自分の立場を相手よりも高いと思い込むなどしているせいで、「誰だってそうするのが当然だ」みたいな話し方をしたり後先まわりのことを軽視したり、とつまり自他の現実を直視せずその一部だけを見て結論を導くような話し方/考え方をすれば、もはや両者の間に世間のつながりは保てない。
価値観の異なる者同士が話す時に「相手の身になって」考えるべしといわれることもあるが、直接その心持ちを目指してはいけない。
まず状況の主語と述語を明確にもち、話に論理的な筋道をつけることで自分の現実と相手の見ている現実の相違点を理解し、「自分の立場(をも意識しなおして)から相手の身になって」考えるべきである。
ん?相手の身…体? これは相手の感じ方のこと、つまりある人(相手)の身=ある人(相手)の感じ方=ある人(相手)の現実ということである。

「風土」が現実のトリセツだったことを思い出そう

たとえば滅私の精神は、共同体は自分、、たちの体(も同然の存在)だという本来のあり方からは乖離している。
ベルク氏は、風土性の視点は全体主義を後押しするものではないという。

p.380 場所は、個人や集団が合法的に所有できるトポスであるだけではない。場所は、集団性、そしてこれを越えて人間性というもっとも広い存在に浸されたコーラとしての性格をもたざるをえないのである。逆にこの観点ではいかなる全体主義も否定する。集団性というものは、個人によってしか構成されえないのであり、このトポスはコーラのうちに解消されることはないからである。トポス性はコーラ性ではない。しかしそのどちらが欠けても、いずれも成立しないのである。

既に紹介したとおりベルク氏はトポス性とは主語論理でありコーラ性は述語論理である、現実とは必ず「主語は述語である」という論理で成り立つ、と主張している。

「風土」というトリセツにおいてはその構造を見ることも重要だが、物事がこの構造をとる前段階として風性と土性に区別できる、という点もまた重要である。
「風土」の大前提であり物事の核となるは、人の価値観を抜きにした物自体、具体的かつ客観的視点からみた物事である。
現実を論理的に考え話す際は、そのように客観的視点から認識できる物を主語に据えないといけない。
人間の場合は、僕や私という主語を用いて話すべきである
たとえば「この集落に住む人は」「誰だってそりゃ○○(するべき)だ」という話は主語があいまいだし(「この集落に住む人」は実体ではなく、実体を形容する述語である)、そのような話は初めから主語を省略して話されてしまうこともある。
そういう非論理的な言動が、現実を混乱させながら全体主義や他者の排除・抑圧を助長するのである。