地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

3 みんなで生きる自由と多様性の容認 -3

世間のメンバーになる条件

人間は共同体のルールに則って、日常的に人間以外の生物を殺す。
たとえ共同体の内部であっても、人間は食物連鎖の頂点に立つものとして人間以外の生物の生を必ずしも肯定しない。
家畜は共同体における他の物(非生物)同様に人間を養い生かす限りにおいて飼育される機能性寄りの存在である。
ペットは近代的視点に特有の主体の投射が招きよせた象徴性に寄った存在として、家畜と同様に人間の生活を支える限りにおいて飼育される。

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人間に害を成すペットを処分する行為は賛否両論を呼ぶが、他人が飼い主を裁くようなことはない
家畜もペットも生き物として主体性をもつが、それは人間でない(動物であるという土性すなわち客観的事実の)故に人間の共同体のメンバーに数えられることはない。
ある主体が共同体のメンバーなのか否かは、人間か否か、そして風物身体の意味=おもむきを共有する意思の有無で判断される。
ある物を「〇〇として」扱おうとするか。
「□□人として」△△すべきだと考えるか。
もしも共にいる幼児や精神疾患患者等が共同体の意味=おもむきを共有せずに行動した際は、本人の過去と将来にわたる素行と血縁関係(人間であるという土性すなわち客観的事実)が考慮に入れられる。
人間は他の生物とは異なり必ず風土性をもつ、すなわち人間は共にいる他者と共にしている環境に対して似た感覚を共有しようとしている、常に地理的かつ歴史的に存在するからだ。
人間は全員、まわりや過去や将来のことに配慮しそれを感受する生き物であるため、たとえ今・ここの行動が共同体のおもむきにそぐわない人でも家畜やペットのように他人から一方的に行動を制限されるべきではない。
物と人双方のあり方を同時に定める地域特有の「ここらしい〇〇のしかた」すなわち当地の「風土」のおもむきが、日々起きる多様な物事すべてに通じる指針を示し、多様な人々をそれぞれ「自分自身の主(体)であると同時に共同体の役における主(体)」として束ね、共に生きられるように導いている。

多様性の容認と社会悪

風土学の視点は、人間の多様性を認める

p.117 二人の人が同じ物理的な環境を解釈しながら、さまざまな中間的な見解がありうるにもかかわらず、まったく正反対の理解をすることがあるのである。こうした問題には、普遍的なものは存在しない。普遍的なところに進むためには、人間的なものを排除しなければならないが、これは自己矛盾である。人間的なものを含まない宇宙=普遍など、普遍的なものではないからだ。

生まれてから死ぬまで常に一個の生物でもあり続け、社会的動物でありながら個体として誰とも共有できない感覚をも知覚し続けている人間は、つまり本質的に多様であるので、都市か田舎かを問わず常に必ず現行のルールに従わない人は出てくる。

そして共同体で現行のルールが常に正しいとは、共同体の内にいる人と外にいる人のどちらにも断言できない。
意味=おもむきの最小単位は人間個人のふるまい毎であり、人がなにか判断する毎にもそれはいちいち発生している。
ある共同体のルールすなわち風物身体全体のおもむきすなわち風土性は、メンバー全員のその総体である。
だから、ある共同体のルールは刻一刻と変わる現実の状況に即して再考され、再編されるべきものである。
以前に例に挙げた田舎のお互い様の精神も、常に共同体にいる若い世代や富裕層から折々の反発を受けながら、彼らと他の世代や他の所得層とが将来のこと(自分だっていつかはみんなの世話になるのだから)・過去のこと(今の自分があるのは誰のおかげか)について話し合い折り合いをつけることで、絶えず個人レベルから共同体レベルへ紡ぎ足すように存続されてきたと考えられる。
このように、人がいる場にあるおもむき(そこにふさわしいふるまい、そこにある事物の意味)を維持・発展させる人間同士の対話は、ベルク氏が「三重に重なる歴史というアリアドネの糸」(既出)と表現したものにあたる。

p.236 わたしが口で「火星」と言うとき、わたしは自分の口、自分の身体を使う。そしてあなたが「火星」という言葉を聞くとき、あなたの〈肉〉の耳と脳で聞くのである。ある晴れた日に突然に、すべての持続とは無関係に、物理的にわたしの口の中にあるわけでも、あなたの頭の中にあるわけでもないある惑星について、わけのわからない神秘的な存在の間に恣意的な、、、、取決めが結ばれて、この言葉に意味が与えられたわけではないのである。日本語の具体的な〈肉〉の歴史の力で、あなたの個人史とわたしの個人史によって、ことは必然的に、、、、進むのである(フランス語はわたしの個人史のおかげで母語となり、わたしの一生を通じて、わたしの舌と耳のうちに受肉した言語となったのである)。この三重に重なる歴史と言うアリアドネの糸なしでは、「火星」と言ってもなんの意味もないだろう。そしてこの糸は、時間の糸なのである。

言語学者が「自然言語」と呼んでいるもの、すなわちほんらいの意味での象徴的なシステムとは、このような性質のものである。そして他のすべての象徴的なシステムは、多かれ少なかれうまく作られた自然言語の比喩と考えることができる。ところでこの自然言語は、アリアドネの糸のイメージで象徴させたように、歴史の特殊な様式でしか存在しえない。たしかに抽象すること、、、、、、で、時間の外で言語の普遍性のようなものを考えることはできる。しかし自然言語の具体性のうちには、三つの次元において特殊性がある―それぞれの言語の歴史、それぞれの語り手の歴史、それぞれの言葉パロールの歴史である。これらの次元がどのように交差するかは、どの言語でも同じように、人間のすべての現実の身体性ー世界性(風土性)に応じたものとなる。言語が存在できる、すなわち意味を伝達する声の記号のシステムが存在できるのは、ある特定の風物身体が歴史的に発展することで、この全体的な身体の一部を構成するそれぞれの個人が、記号を通じて自分の動物身体のうちに、このシステムを取り戻せるようになっているからである。そして記号がこの個人に伝達すべき意味=おもむきを感じ取らせる。その意味=おもむきは抽象的なものではない。これは〈肉〉から生まれ、〈肉〉に戻るものだからであり、この記号は天から与えられたものではないからである。通貨記号の価値が、なんらかの「財宝」(金の延べ棒など)に認められた価値によって保証されているように、声の記号の意味は、世界を構成する風物身体という物の通態性によって保証されているのであり、この世界に住むそれぞれの人間の動物身体とこうした物の実存的な絆を想定しているのである。この存在論的な構造の外部では、意味=おもむきは存在しないし、それゆえ記号も存在しえない。

しかし、ある共同体においてたとえ対話がなされても、それが社会規模であれ家族のような小さな規模であれ、そこにおいて多数派から「変だ」「意味が分からない」「どうしようもない」と言われるような人は必ず出てくる。
多様性を認めることを支持する風土学の視点は、そのような人が存在することを認める。
たとえ他人の存在つまりその動物身体や風物身体を害するからといって、その事実だけを理由に人間をその場から排除することは認められない。
ただ、人間の行為をその「風土」の意味=おもむきと合致するかどうかという観点から検討しようとするだけだ。
なぜならこの意味=おもむきには必ず当事者または部外者の主観が含まれる。
先に引用した文のとおり「こうした問題には、普遍的なものは存在しない」というのが、風土学の見解である。