地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

4 個人として生きる自由 -1

しがらみのない都会の良し悪し

日本の諸都市は、高度成長期の政策により田舎から多くの人を吸い上げて巨大化・過密化した。
人間の生活空間としてのそれらの都市は、住民が自分の力を専門的生業と私的生活の営みだけに集中できるよう、金銭を媒介として個人の私的領域をきっちり区切るように作られてきた。

p.380 20世紀に顕著にみられる傾向は、都市化だろう。住民と都市の目に見える境界を越えて、風土エクメーネをその根のところまで、都市のおもむきに変換しようとする傾向である。

ベルク氏の指摘したようにその都市的生活の傾向は市街地か否かの区別にかかわらず日本全国で強まっているが、特に高度成長期以降に発達した都市地域はそれが構築される当初から個人主義の感覚を前提としており、その感覚が公私の領域共に沁みわたっている。

ただし、住民同士が伝統的な(ある意味きゅうくつな)絆を保っているような都市も、もちろん日本には現存する。
以下では、たとえば東京都の大半の住民の住まいのような、伝統よりも近代的な個人主義の感覚が優先される都市にその気質を好む人々が集った様子を指して「都会」と表す。

日本の都会では、だれもがお金を使って自分の自由な活動を実現できるような場が、共同体ではなく社会として実現されている。
僕は、共同体とはそのメンバーがその場における役割を主体的にこなすことで内発的にまとまり維持される集団だと思うので、人々が「隣の人とどう摩擦を避けるか」ばかりを念頭においてただ密集しているような状態にある日本の都会は共同体とはいえないと思う
都会では他人に世話を焼いたり焼かれたりする手間や気遣いは必要ない。
いつどこで何をするか、お金さえあれば本人の意志で選ぶことができる。
たとえば引っ越した先でも移った当日から誰に気兼ねすることなくそれ以前と同じような自分らしい暮らしを始められるし、また終えられる。

でもそのような場では誰かが自由に社会悪を働くこともあり得る。
だから暮らしにおいてくまなく法律が定められ、個々の行動の合法性に強い関心が集まるようになる。
何か事件が起きるとまずその合法性が問われ、もし法律の定義や運用の上で現実的な抜けが合った場合はそれを現実に即して変更することで再発を防ごうとする。

都会において会話を除けばほとんど唯一の交流手段たる金銭を必要十分に得られない人は、まともに暮らす術をもたない。
都会において生きる術を失った人は役所に出向いて生活保護を受け、再分配された富において暮らすことになる。
そうせずに必要十分以下の収入において都会にとどまるならば、もはや人間らしいとはいえない生活を送るしかない。

今日、分業制は都会と田舎を選ばず日本中で浸透しているが、田舎では先に挙げた雪下ろしや消防のような自治機能だけは他人ばかりにまかせず、できる範囲で自分たちの主体性において分担し運営しているところが多い。
他方の都会に生きる人々は、個人の意向に沿った活動を最大限実現することをめざしながら自治機能すら専門業者にまかせ、1分1秒でも長い時間を自分と自分の身内や自分の選んだ仲間のために割こうとしている。

下に都会の住民、特にその生活を好みがちな若い世代と、田舎の住民と都会生活を敬遠しがちな年配の世代の価値観・行動様式を対比してみた。
世代による区別は、本人が生まれた時点での日本の近代化の進み度合いからみて便宜的に設けた区別である。
日本人全員を見渡すと大まかにいって下のような傾向が見られるのではないだろうか。

都会の住民や若い世代 田舎の住民や年配の世代
仲間意識 数の上で無制限な人々とそれぞれ限られた面で(たとえば趣味や職業を通じて)つきあっている 個人的な趣向や意向を問わず、地域共同体の全員がかなり多面的につきあっている
自由 いま行使できる自由を重視する
将来の不安を訴える人が増えている
将来に渡って自由でいられるように過去をふまえて現在の行動に配慮する
危機意識 天災や人災に対する危機意識が個人的・刹那的である 危機意識が社会的・通時的である
危機管理 生活全般の危機管理は主に専門家にまかせ、他人と区別される自己の範疇(たとえば自分の家の内)においてのみ関与しようとする 共同体全体について主体的に危機管理にあたろうとする
個人的な危機も一部は(やはり主体的に)共同体の管轄に含めようとする
個人的な問題に対する姿勢 物事において物の有無を本質視しがちである 物事において事(やり方や人間関係)を本質視しがちである
自分の体に向かう姿勢 体を物事として見た時に、事側の面(いかにケアするか)が健康(理想的な体のあり方)につながると考える 体を物事として見た時に、物側の面(もともとどういう性質か)にもとづいてそのケアを行おうとする
上記すべての前提事項 人間は一人で必要十分な存在である
本人の意思によらない限り、人の生活に他人が介入することは必要最低限に抑えるべきである
人間は一人では不完全である
人間は必然的に他人と共同しなければ生活できない
社会的な問題に対する姿勢 物事の事におけるあり様(物が人に与える心象や人がとる態度)を、物の本質よりも重視しがちである

僕は以前、日本人は儀礼を好み人の思いや人がつけた名など(つまり現実の述語)を物の客観的なあり様(現実の主語)よりも重視しがちだと述べたが、この傾向は日本社会全体の歴史的な傾向として、田舎か都会かに関わらずここに暮らす僕らの文化に沁みこんでいるように思える。
ただ、個人的な物事については現実の主語つまり自分の心身を重んじようとする風潮が個人主義として強まったため、その日本的述語偏向が人としての主語(個人的な感覚や意見)から押し切られることさえ起こるようになった。
日本人の文化的な傾向は、自分に関わらない他人の物事つまり社会的な物事だけに顕著に残っていると思う。
逆にいうならば、その分野においては明らかに日本人の近代化が進んでいないと思う。
上の表の最後の行は日本人全体に共通してみられる、場の空気を重んじ、物事を水に流そうとし、人にも物にも品格を求めるような社会的傾向を示したものである。
他人のいる場に対して特別責任をもたない人がその場に対して自由な意見を述べる(たとえば映画の感想を言う)とこのような考え方を示すことが、日本人は世代を問わず他の国の人よりも多いと思う。
ただそれが自分が臨席/直接関係している場となると、個人主義の影響が従来の日本人らしい態度を凌駕するようにもなったのではないかと思う。

現実には人が物に込める思いも、それを実際に具現化してくれる物自体の本来のあり様も、その両方ともが欠くことのできない要素なのだ。
たとえば仕事の職務上はそのように理解しふるまっているけれど私生活での態度はまた別、という日本人はけっこう多いのではないだろうか。
日本人は無意識に、日本人の風土性という型にはまっている。
公私の態度にへだたりがあること自体を問題視しているのではないのだが、いま僕らに必要なのは、その型すらも含めて現実を具体的に直視して考えることである。